2020年1月17日金曜日

私という犬小屋

幸せが何か分からない。多くの人が幸せと呼ぶ状態は、幸せというより平穏で、あったらあったで良いが、なかったらなかったで私には構わない。「まあまあしんどい」状態が、「マイルドにしんどい」状態に改善されるだけで、しんどさが続くという点で私にはあまり変わりがないからだ。私は、しんどい。生きていくことに向いてないんだと思う。かといってもう売春とか、そういうファンタジーを追いかける体力もない。ひたすら、面倒くさい。最近は、性行為もあまり好きじゃないってことに気がついてきた。相手が喜んでくれることが好きだっただけで、そういうモチベーションを持たない今、それは総じてサービス精神が欠けてきたということか。喜んでもらいたいという奉仕の精神よりも、ただ私の言うことを聞いてほしいという自己主張の精神が勝る。

鬱陶しい。分かっている。鬱陶しいから、抑えたい、こんな自分。鬱陶しいから、表に出したくない、こんな自分。だから私は白紙に向かってタイピングし続けるんだな。みっともないな。悲しいな。

自分のことを何でも話したくなる人に会った。あ、この人だ、と思ったのはやはり10年ぶりだったので、私は10年周期でしか人を好きになれないのではなかろうか、という仮説を秘密裏に立てて一人で楽しんでいる。10年ぶりに好きになった二人目の人はしかし、やはり、やっぱり、私のことを好きではない。いや、聞いてないから分からないが、そして多分に、「まあ悪くは思ってないんだろうな」と感じるのだが、お互いの年齢と立場と体裁を考えると、私もあまり明け透けなことはできないし、それは向こうも同じだろうと思う。私は今すぐその人に連絡を取り、自分が何をしているのか、どうしているのか、どう思っているのか、何が起こっているのかをつぶさに語りたい。

語りたい。鬱陶しい言葉、出ました。でも、そうなのだ。飾らずに書くと、思っていることをそのままその人に話して聞いてもらいたい。何のためらいもなく喋り続けたい。その人に、私の話を、聞いてほしい。その人の心や頭の中に、私という手作りの木製の犬小屋を作って置いておいてもらいたくなる。その犬小屋はきっと歓迎されないが、相手は大人なので、積極的に排除もしないだろうと思う。

その人と一緒にご飯を食べに行ったことが何度かある。そこでもやはり私は一生懸命喋り、居合わせた人に、「そんなに喋るんですね」と驚かれ、その人は「(犬さんは)いつもこうだよ」と言った。私はその人といる時はいつも大体ものすごく喋るので、逆に普段どれだけ喋ってないのかなと面白くなった。

私が連絡を取り続ける限り、その人は返信をし続けてくれると思う。人間関係というものはどうやらそういうものらしい。私のように、思い立ったら返信するのではなく、基本的にやってきた連絡というものには真面目に返信するらしい。だから返事があったくらいで喜んではいけない。だけど、返事がないと不安で恥ずかしくていたたまれなくなるし、返事があったらあったで、その淡白さにまた苦しくなるし、どちらにしろ苦しいのは変わらないのだった。連絡してもしなくても苦しむのなら、恥ずかしさがない分、失敗しない分、関わらない方がいい。歳をとって世間体を身につけた私は、そう判断した。それで、毎日、悶々としている。ああ、あの人から連絡が来ないかなと思っている。連絡、なんか、来るわけ、ない。

死にたさが周期的にやってくることにもう慣れた。手首を切ったり知らない人と寝たりするのももう面倒くさい。とにかく死なない程度に、生活の品位を保てる程度に、働かなくては。そう思って、ある意味本当に、歯を食いしばるようにして働いている。いや、食いしばるほどでもないのだが、しんどい。私は人生を休みたい。人生を一回降りて、休みたい。だけど経済的にも社会的にも、そういうことはできない。いや、できるのかな。できるのかも知れないけれども、15歳や20歳と違うのだ、しっかりしなくては、社会の輪の中に入っていかなくては、というプレッシャーを、自分で自分に、ひしひしと掛けている。社会の輪の中にいない自分は、ひたすら自堕落で体調が悪かった。一方で社会の輪の中に組み込まれている自分も、それなりにしんどくて体調は悪いのだった。ほらね、安住の地はない。私が住める場所ってない。私に居場所がない。いつもそう思う。

デリー大学のサウスキャンパスにも犬はいる

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