2014年7月1日火曜日

罪でもない、忘れもしない / Forget your past, it's not your fault.

Not my fault, and Never forget my past.

 比べることは無意味である。落ち込むことも無意味である。頼ることは、束縛することは、乞い願うことは、夢を見ることは、不安に落ち込むことは、想像でめげることは、すべて意味のないことである。

 森田療法を厳密に実行し吸収していくと、果ては無心とか涅槃の境地へ辿りつくのじゃないかと思った。人を好きになること、人と一緒にいることについて家族と話をしていて、私は極端である、という評価をくだされた。それは、毎度、いろいろな人に言われるので知ってはいたが、私自身が心底から同意できた試しがない。なにが、極端か。人はみんな極端な生き物なんじゃないのか。何でも自分を評価基軸の中心に据えるから、他人がおかしく見えるんじゃないのか。

 私は極端かも知れない。でもあるとき、思い悩むことに意味はないと思った。私は日本国内にいれば中間層であるが、世界に出れば比べる対象によっては富裕層の仲間入りをし、あるいは最下層に位付けされるかも知れない。つまりそういうことだ。評価は、常に、その母数によって変化する。どこの誰と何を比べるかで変わってくる。当たり前すぎるくらい当たり前のことだ。であれば評価なんていらない。私は世界で一番不幸だったかも知れないし、世界で一番幸せかも知れない。そんなことは誰にも分からない。誰とも比べられない。自分で決めるしかない。

「すごくブレーキがかかってるってことじゃない。人を当てにしすぎないように」

 そうなのかも知れない。精神の充足と性欲は関係する、と私は思っている。精神的に不安定なとき、異性を欲する。精神的に脅かされているとき、強烈な支配と暴力を欲する。だけど精神が満たされているとき、あるいは不安定な状態にあることを、自ら抛棄したとき、私は性からも解放される。分かりやすく言うと、精神が傷めつけられると、同じくらいか、それ以上の肉体の痛みを欲する。だけど精神が満たされるか、あるいは痛みを感じることを選択的にやめる術をおぼえると、肉体の痛みも要らなくなる。アブノーマルとされる行為に対する興味が極端に薄れたことを自覚している。

「もっと情熱を持ちなよ。そんなジジイみたいなこと言ってないで」

 そうなのかも知れない。私はただ、期待することの無意味さを自分で分かったつもりでいるのだ。私は、期待して、期待して、崩れる。当てが外れると体調を崩し、体調を崩した自分を恨んで肉体的に痛めつける。それを何度も繰り返して、自分の馬鹿馬鹿しさに気がついた。自分を痛めつけることの限界が見えた。どうせ、私の自傷行為は見せ物でしかない、という悲しい実感があった。本当に死にたいのなら手首でも首でも切って死んじまえ。そう願って刃物を握りしめるのに、痛みに怯んで力を弱める。痛みを怖れて深く切れない。それが、人間の自己防衛本能が正常に働いている証なのに、それすらも恨んで憎んで自分を否定してしまう。この先はないと思った。ぴりっと痺れる白い筋を肉の間に見つけたとき、もうこの先はないと思った。これ以上切り続けても終わりはない。死んで焼いたって骨になるだけでゼロにはなれないのだから、切りつけて切りつけて繰り返し自分の面積を減らしたところで、私が消えるわけではない。

「私は私ができることをやって、それで満足だよ」

 本当にそれで良いかどうか分からないけど、でもそれしか出来ない。笑顔をつくった。私はもしかして誰も必要としない幼稚な人間なのかも知れない。思い通りにならないのなら誰もいらない、と過去に思った。愚かであった。思い通りにならないのは当たり前だから、そんなことで傷つかない、と思い直した。等しく愚かであるが、それでも私は楽になった。苦しくなくなった。苦しみがなくなった。思い通りにならないのが当たり前だから、そんなことで傷つかない。

 好きな人ができると良いな。憧れて、尊敬できる、すてきな人が。私は人を性的対象として見定めることは得意だが、好きになることについては、もしかして下手くそなのかも知れない、と思った。