2016年6月20日月曜日

自己を振り返る

 自分のことを省みる機会が多い。振り返って考えてみるに、私は父親に似ており、その父親の評価が家族内で高くないと知り、驚く。お父さんのことを尊敬していたのは私だけだったのか、という驚きと、薄々感じるようになってきた、年老いてきた両親の重み、寄りかかられる鬱陶しさ、疎ましさ、子供の頃の恨みを未だに持っている幼稚な自分と、それを律する「大人の自分」がいる。

 思うことは、相も変わらず「何も考えたくない」ばかりだ。

 家族と話していて気付いたことは、私は他人にまるで興味がないし、自分のこともどうでも良いのだった。私は、それで良かった。それでいいと思っていた。全然気にしていなかった。だけど、これから他人と関係を築いていこうとするとき、それは大きな障壁となって立ちはだかる。少しでもその他人との間に問題が見つかると、私はすぐとその他人を手放してしまう。その他人に、私が何を問題だと思っているのか、何を嫌だと思っているのか、どういう解決方法を望んでいるのかを相談することもなしに、その関係自体を、手放そうとする。手放すことにもちろん痛みはある。私だって悲しいと思う。寂しいと思う。こんなはずじゃなかった、もっと仲良くできるはずだったのに、と思う。だけど、私の頭の中に、まるで自動的に、絶対唯一のものとして、「付き合わない」が設定されていて、私はそれしか選べない。
 他人にどうやって自分の意思を伝えれば良いのか、それ以前に、そもそも、「自分の意思」とやらを「伝える」ということにすら思い至らない、私には何か重大な欠陥でもあるのだろうかと自分で勘ぐってしまうほどに、私は、他人と、関係を築けない。

 それで良いのだ。それで良かったのだ。他人なんかいらないし、人付き合いなんかどうでも良いし、友達も欲しくないし、正直、寂しいと思ったことは一度もない。私はそれを普通だと思っていた。私の普通は他の人とずれているけれども、それでもこれが私にとって普通だ、と思っていた。でも、分かった。友達がいたことがないから、「友達といて楽しい」という思いもしたことがないし、だから寂しくもなかったのだ。「友達」について喜んだことがないから、失ったこともない。だから「友達」がいなくて悲しむこともないし、当然、寂しさなんか覚えようがない。経験したことのないものについて、思いを巡らせようがない。食べたことのない料理について感想の述べようがないように、聞いたことのない言語でもって、会話することができないように、知らないものについて、知りようがない。知らないものについて、後悔しようがない。惜しみようがない。それを得たことがないのだから、それについて、良し悪しを述べようがない。

 私には友達がいない。それは事実であるし、多分これからも変わらないだろう。友達とは、どうやって作るのか、相変わらず分からないし、何をして一緒にいるのかも分からないし、どう接すれば良いのかも分からない。安易で安直な手段として、同性とはお喋りを、異性とは体の関係を結ぶことしか私には分からないし、時間のかかるお喋りはくたびれるから好きではない。というわけで、私は異性とは簡単に結びつき、そしてそれに何の意味もない。私は、空っぽか。