2012年5月27日日曜日

六時半の夢


 恋人と手をつないでいた。赤ら顔だった。頬にはあばたのような傷があった。目が合うとにっこりと笑って、薄い唇のあいだから覗けた歯が灰色がかって汚れていた。なんだ、この人。こんな人だったのか。少し見ない間に、こんな風になってしまって。私が好きだったのは、こんな人だったのか。風が吹いた。赤い顔した恋人が、私の長い髪の毛で見えなくなっていく。目が覚めた。夢だった。あれは浅草、きっと吾妻橋か、もしかしたら大桟橋の方、どこか海のそばで、二人で行ったことのある、風の強い場所だった。

 目が覚めたら、自分の寝床で、布団に顔をつけて眠っていた。びっくりした。心臓がどきどきしていた。びっくりした。恋人があんな風になっていたらどうしようと思った。布団からはみだしていた青いバクのぬいぐるみを抱き寄せる。柄にもなく、年甲斐もなく、こんな人形を抱きしめて眠っている。19歳の時に東京都下の、団地と畑と国道しかない土地のドンキホーテで買った。あのとき付き合っていた人の住んでいたアパートのそばには、ドンキホーテしかなかった。

 枕許の時計を確認する。6時半より少し前だった。寝床に入ったのが2時くらいだから、やっぱり4時間で目が覚める。たまの休みは、予定を立てて行動したいほど、嬉しいものだから? 金曜日の昼日中から楽しみで、金曜日の夜は期待が大き過ぎて不安になって、呼吸がしづらくなって、頭痛がしてきて、うんうん言いながら眠る。それでも朝はびっくりして起きてしまう。最近あまりよく眠れないで、6時くらいに目が覚めてしまう。それでぱっと起き上がれば良いのに、すぐと目を閉じてもう一度眠ってしまう。

 いまの恋人はどんな風になっているんだろうと、目を閉じて想像する。頭の右上の方がかすかに痛い。いまの恋人はどんな風になっているんだろう。元気にやっているか。少しは痩せたのか。趣味に邁進して充実しているか。それとも傷心で意気消沈しているか。私のことなんて忘れて楽しく伸び伸び好きに生きているか。どんな風になっているんだろう。もう別れたのに、自分から駄目だと最後通告をしたくせに、どうして私はこうも未練がましいのだろう。どうして私はあんな恐ろしい夢を見てしまったんだろう。どうして私は、すぐと前に進めないのだろう。

 時間を無駄に過ごしてしまったのかと自問自答しかけて、すぐと自ら否定する。そんなことはない。そんなはずはない。無駄だったなんて、そんなことは。無駄だったと否定することは、自分の時間を否定することと同じだ。私は何年もの間を無為に過ごしてきましたと断ずることは、今の私には、到底できそうにない。

 私が弱いせいか、いつも今すぐの答えを求めてしまう。絶対に覆ることのない、絶対に正しい、それを突きつけられたらもう諦めて受け入れるしかない、正解を求めてしまう。私は、頭が弱いのか、あるいは、意思が弱いのか、いつもはっきりと申し渡されたい。命令されたい。逆らうことのできない答えを呈示されたい。答えをもらって、なにも考えず妄信したい。服従したい。私は自分の意思を持つことから逃れたい。自分で決めて、自分で進む。その自由の責任から逃れたい。自由が怖い。自由であることが、怖い。自由でいることが、怖い。「何でも好きなようにしていいよ」私の目の前にはいつも選択肢が用意されている。私は自由気まま好き勝手を約束され保証されている。私は好きなように生きていい。どこに行っても、何をしても、どう転んでも、何でも許されている。それなのに私は不能だ。手足がない。正確には、あるけれども、ちぢこまって使い物にならない。右足、左足、一歩前へ、前進のかけ声が欲しい。命令されたい。規定されたい。断定されたい。規制されたい。拘束されたい。束縛が欲しい。不自由が欲しい。喉から手が出るほど不自由が欲しい。それは性的なことではなく、私自身をもうずっと脅かしている、不能の欲望だ。私は不能になりたい。ふぬけになりたい。何もできなくなりたい。手も足も、首も目も、顔も、耳も、くちびるも、ただそこにあるだけで、何も使うことができず、ただそこにあるだけで、誰かの意志と意思によってのみ行動を始められる、そんな不自由が欲しい。窮屈が欲しい。恐ろしく傲慢だが、私は不自由が欲しい。

 かといって、これが全身まひだとかの「本当の」不自由であったら全力でそれを避けようとするのだから、やっぱり私は馬鹿なのだ。傲慢なのだ。頭のなかだけで理想の不自由をつくりだしてそれを崇め奉り現実のものにしようとしている、と自らを規定する。お前は馬鹿だ。不自由や窮屈に幻想を見ているのだ。それが美しく素晴らしいことで、そこに自分の悩み苦しみ思い煩いはなく、だから心の重苦しさや不安とも縁がなく、ただ言われるがままに行動し、誰かの意志と意思を反映するのみの道具と化したいと思い込んでいるのは、それが頭のなかだけで作られた陳腐な虚構だからだ。それは、お前の鬱陶しい思い違いと思い込みをたぶんに投影した、お前の勘違いだ。お前は、自らの行き過ぎた勘違いを理想化し、そこに辿り着けないことで苦しんだふりをしながら、けれど実際に自分の理想とする身体的な不自由が自分に約束されようとしたら、全力でそこから逃げようとする、あれも嫌これも嫌のわがまま放題で、結局みずから何も規定することができず、だから欲しいものもはっきりと分からず、ただ漠然とした不満足を抱えている、どうしようもない頭でっかちなのだ。自分で決めて、自分で進むのが怖いから、いつも誰かに従っていたい。ただ一言それだけの愚かさを、延々と御託を並べて自分の苦しみのように見せかける、お前はただそうやって自分の苦しみもどきと手に手をとり合って遊んでいたいだけの大馬鹿者なのだ。



 恋人はいつか私を怖いと言った。私は主体性がない、という私の言葉を、彼はついぞ最後まで信じてはくれなかったが、実際のところ私はきっと本当に主体性がないのだと思う。いつもいつも誰かや何かの意思に従いたがっている私を、命令を待っている私を、その私の行動原理を、怖いと言った。それは正直な反応だと思う。私はおかしい。おかしい人間を怖がるのは、当然のことだ。そうしてまた断定に逃げようとする。私はおかしいのか。私は主体性がないのか。私は怖いのか。私には私が分からない。だけど、「私のこと」を延々と考え続けていられるだけ、私はどうしようもなく暇を持て余した自己愛の塊なんだろう。だから、余計なことを考えてしまうのだろう。もっと充実に逃げる。自分の時間がなくなれば自分について考えることも減るだろう。余計なことを考えてしまうのは、それだけの余裕があるからだ。それだけの余裕を減らせば、きっと苦しみも減るはずだ。もっと予定をぎゅうぎゅうに入れて、あれもこれも欲張って盛り込んで、いろいろやろうとして、意味もなく興味もないくせに、どんどん手を出して、すぐと疲れて死にたくなってしまうくせに、それなのに、忙殺に、救いを見いだす。矛盾している。

2012年5月20日日曜日

急坂をのぼる

一週間くらい前か、新国立美術館で開催されている「国展」を見に、父に着いて一緒に行く。父の知り合いというか、教え子に当たる人が入選されたので、見に行った。

 その人は、挨拶ついでに他の作品の説明もしてくれるとても優しそうな人当たりの良い人で、よく見たら7年前に一緒にアメリカに行った人だった。向こうは私のことをちゃんと覚えてくれていたが、私はまだ子供だったので、おぼろげな記憶しかない。シカゴのジョン・ハンコック・センターを観光客然とカメラをぶら下げてぞろぞろと行き、そこから見える100万ドル以上の夜景に感動して顔を見合わせた、ことしか覚えていない。我ながら勿体ない旅の仕方だ。

 今日は、また別な場所の展覧会にお邪魔した。子供のころ、父の先生に当たる方の展覧会をここでやったことを覚えているが、ここが映画の舞台になったこと以外、まったく記憶から抜け落ちていた。久しぶりに来てみて、子供のころに見たケンタッキーがまだあることに軽い感動を覚えた。駅からの上り坂は思っていたよりずっと急で長かったが、その先の階段はとても短くてすぐと終わってしまって、その終わった先の緑のトンネルの先に美しい白い建物が建っていた。ああ、こんな風だったっけ、と懐かしく、だけど不思議に思う。映画の中ではもっと大きな建物のように映っていたが、実際目の当たりにしてみると、それほど大きくもない。だけど中に入ってみると、意外に広い。不思議な構造で、建物の横幅は狭いのだが高さがある。部屋の中や部屋のドアは、迫ってくるような狭さなのに、一歩踏み入れてみると、意外に天井が高くて変な感じがする。部屋全体に長体をかけたような、まるで自分まで横幅80%縮小されたような、そんな不思議な感じがあった。

 展覧会の会場へ向かう電車のなかで、前の恋人によく似てる人を見つけて、一瞬心臓がきゅっとちぢんだ。ここは彼の住んでいる沿線で、だから昼間の時間帯に彼がもしかして電車に乗ることも当然考えられることで、そうしてこの場合の私は彼の領域に突然割って入った闖入者なのだと思うと、何だか切なかった。電車のなかの彼によく似た人はスマートフォンをいじっていて、誰に何のメールをしているの、と思った自分が怖かった。これからどこに行くの。誰に会うの。何の用事で、もしかして楽しいこと。そこまで想像して悲しみを覚えた自分を、怖いと思った。いまさら何を執着することがあるんだろう。いまさら何をやりなおせることがあるんだろう。私はできるだけのことはやった。出来る限りのことをやった。自分がするべき、そうあるべき行動をとった。不完全で不充分だったかも知れないが、ともかくも私は自分で納得できるまでの行動をとり、そうして疲れた。ここに私の幸せはないと思った。無理をすることは私の幸せではないと思った。誰かや何かの意志と意思におもねることは私の幸せではない、もう私は誰かや何かの意志と意思の思うままに従わないと決めた。私は私の幸せを求める。簡単に言えば、やりたいことをやる。誰にも邪魔されないように、やりたいことをやりたいだけ、自由にやる。それを誰かに止められたり、誰かの顔色をうかがったり、その結果として行動を制限したりすることは、しない。それは私の幸せではない。

 そんな当たり前のことに、いまさら気が付いて、そうして今からそれを求める。心の中でぶつぶつとそのことを唱えて、納得すると、さっき見たのは、彼によく似た別人だったかも知れないと、都合のいい考えが浮かんできた。実際のところ、どうか分からないが、もう今さらどうすることもできないことについて、あれこれ思い悩んでいることが辛いので、辛いことからは逃げる。それで良い。


新国立美術館の磨りガラスから見える、屋外展示作品

2012年5月6日日曜日

見つけるの早いよ

姉に付き合って御徒町・上野へ行く。バイク用品の店があるというので、そこら辺を歩く。ヘルメットや手袋を見てまわる。よく分からないで帰ってくる。上野の駅構内にある本屋で人にあげる図書カードを買い、そのまま店内に吸い込まれていってしばらく立ち読みをする。


 昭和通り沿いの店をふらふらと歩いて回ったが、あそこら辺は夕方から何をしているか分からないで通りで煙草を吸っている男の人が多い。何語か分からない言葉を喋っていて、あちこち見て歩いている、そこら辺に不慣れな田舎者の私を見て、こんな所に何をしに来たんだと笑っているような気がした、のは私の自意識が過剰なせいか。新橋に行ったときも思ったが、昼間から借金取りバッグを片手にふらふら歩いている人は一体どんな生活をしているのだろうか。そこに興味がある。そうしてそこに興味を持つほどに、私は世間ずれしていない、ある意味で暗い危ない所を何も知らずに幸せに育って来られたのだなと思う。それはありがたいことであるのに、どこかで何も知らないことを恥ずかしく引け目に思っている自分がいる。

 歩きながら思い出した。「御徒町に古いバイク用品店があって、むかし行ったことがある」「御徒町ってどこ」「上野の近く」「上野って美術館があるところ」「そう、不忍池があるところ」「最初に会ったところだね」「そう、初めて会ったところ」なんで駄目にしてしまったんだろうと思う。なんでもっと大切に出来なかったんだろうと思う。一日のうちで何度も気が変わり考えが変わる。嫌だ、という否定の意志ははっきりとあるのに、こうしたいという積極的で肯定的な意志が持てない。自分のなかに見つけられない。だから何も考えない。思考停止をする。


 初めてみたジャイアントパンダ

2012年5月5日土曜日

性的少女のおぼえがき

新木場のSTUDIO COASTで開催されている「JAPAN JAM 2012」に、姉の代わりに行く。出演者のほとんど誰も知らなかったが、向井さんが出ると聞いて行くことを決めた。


 向井さんは、星野源という人とセッションしていた。遠目に見ると森山未来くんに見える星野さんは、かわいらしくて、歌もうまくて、いろいろを作れる才能があって、とっても今どき風で、だから何だか引っかからなかった。私は向井さんや友川かずきのような泥くさい、どこまでいっても鬱陶しくしつこい感じしか受け付けないようだ。「Water Front」から始まり、「透明少女」や「IGGY POP FUN CLUB」などナンバーガールの名曲を久しぶりに聞き、なんか夏だなあ、という感想を持つ。

 初めてナンバーガールを聴いたとき、私は17歳だった。学校をサボって行く場所が図書館しかなかった。東電OLに関する本を探して読んでいた。冷凍都市も透明少女も全部自分のことのように思っていた。夏だった、冷房の風邪が意地悪に冷たかった、どこか湿って黴臭いベッドに横たわってうすピンク色の天井を見ていた、自分はどこにも行かれないという不能感と、望めば何だって手に入れることが出来るという誇大妄想の万能感に取り憑かれて覆いかぶさられて引き裂かれてほとほと参っていた。20歳になるまでに死んでしまおうと思っていた。若くて馬鹿だったが、はっきりした意志を持っていた。何も知らなかったから、自分に迷いがなかった。苦しかったけれど、いまほど窮屈でもなかった。苦しいなりに何だかひりひりするような切実さがあった。あまりなにも省みることがなかったせいだろう。自分のことをだけ考えていれば、自分のことだけで悩んだり苦しんだり悶えたり落ち込んだりしていれば、それで事足りた。あのときのことを思い出した。

 向井さんの曲はよく「思い出」が出てくる。思い出す。思い出を抱いている。「記憶」や「記録」も多い。今ここの実感ではなく、今から手を伸ばして触ることのできない「過去」と「思い出」と「記憶」に興味の対象が絞られている。それが好きだった。私もあのとき自分の「過去」と「思い出」と「記憶」に取り憑かれていた。あのときのことを思い出していた。

 久しぶりに「おとうと」に連絡を取ろうかな、と思ってやめる。「おとうと」は私のなかでまさに冷凍都市のイメージそのもので、「おとうと」といると私は「性的少女」になることができた。でも私は途中で、自分が「透明少女」でもなければ「性的少女」でもない、もちろん「東電OL」でもない、私では、主人公になれない、ことに気が付いてしまった。それまで自分が持っていた思い上がりが心底恥ずかしくなって、冷凍都市から始まるそれらのイメージから遠ざかっていた。「私では主人公になれない」過剰な自意識しか持ち合わせのない私にその現実は痛かった。でも現実は現実で、私は主人公になれなかった。

 「おとうと」と会って話してみたら、一晩くらいはその気分を味わえるのだろうが、やっぱり途中で現実が見えて、この先に道の続かないことが見えて、落ち込んで死にたくなってしまうので、現実に立ち戻って、「おとうと」に連絡は取らなかった。意味不明の日記になる。


向井さんの番が終わって会場を出ると、見事に晴れていた。