恋人と手をつないでいた。赤ら顔だった。頬にはあばたのような傷があった。目が合うとにっこりと笑って、薄い唇のあいだから覗けた歯が灰色がかって汚れていた。なんだ、この人。こんな人だったのか。少し見ない間に、こんな風になってしまって。私が好きだったのは、こんな人だったのか。風が吹いた。赤い顔した恋人が、私の長い髪の毛で見えなくなっていく。目が覚めた。夢だった。あれは浅草、きっと吾妻橋か、もしかしたら大桟橋の方、どこか海のそばで、二人で行ったことのある、風の強い場所だった。
目が覚めたら、自分の寝床で、布団に顔をつけて眠っていた。びっくりした。心臓がどきどきしていた。びっくりした。恋人があんな風になっていたらどうしようと思った。布団からはみだしていた青いバクのぬいぐるみを抱き寄せる。柄にもなく、年甲斐もなく、こんな人形を抱きしめて眠っている。19歳の時に東京都下の、団地と畑と国道しかない土地のドンキホーテで買った。あのとき付き合っていた人の住んでいたアパートのそばには、ドンキホーテしかなかった。
枕許の時計を確認する。6時半より少し前だった。寝床に入ったのが2時くらいだから、やっぱり4時間で目が覚める。たまの休みは、予定を立てて行動したいほど、嬉しいものだから? 金曜日の昼日中から楽しみで、金曜日の夜は期待が大き過ぎて不安になって、呼吸がしづらくなって、頭痛がしてきて、うんうん言いながら眠る。それでも朝はびっくりして起きてしまう。最近あまりよく眠れないで、6時くらいに目が覚めてしまう。それでぱっと起き上がれば良いのに、すぐと目を閉じてもう一度眠ってしまう。
いまの恋人はどんな風になっているんだろうと、目を閉じて想像する。頭の右上の方がかすかに痛い。いまの恋人はどんな風になっているんだろう。元気にやっているか。少しは痩せたのか。趣味に邁進して充実しているか。それとも傷心で意気消沈しているか。私のことなんて忘れて楽しく伸び伸び好きに生きているか。どんな風になっているんだろう。もう別れたのに、自分から駄目だと最後通告をしたくせに、どうして私はこうも未練がましいのだろう。どうして私はあんな恐ろしい夢を見てしまったんだろう。どうして私は、すぐと前に進めないのだろう。
時間を無駄に過ごしてしまったのかと自問自答しかけて、すぐと自ら否定する。そんなことはない。そんなはずはない。無駄だったなんて、そんなことは。無駄だったと否定することは、自分の時間を否定することと同じだ。私は何年もの間を無為に過ごしてきましたと断ずることは、今の私には、到底できそうにない。
私が弱いせいか、いつも今すぐの答えを求めてしまう。絶対に覆ることのない、絶対に正しい、それを突きつけられたらもう諦めて受け入れるしかない、正解を求めてしまう。私は、頭が弱いのか、あるいは、意思が弱いのか、いつもはっきりと申し渡されたい。命令されたい。逆らうことのできない答えを呈示されたい。答えをもらって、なにも考えず妄信したい。服従したい。私は自分の意思を持つことから逃れたい。自分で決めて、自分で進む。その自由の責任から逃れたい。自由が怖い。自由であることが、怖い。自由でいることが、怖い。「何でも好きなようにしていいよ」私の目の前にはいつも選択肢が用意されている。私は自由気まま好き勝手を約束され保証されている。私は好きなように生きていい。どこに行っても、何をしても、どう転んでも、何でも許されている。それなのに私は不能だ。手足がない。正確には、あるけれども、ちぢこまって使い物にならない。右足、左足、一歩前へ、前進のかけ声が欲しい。命令されたい。規定されたい。断定されたい。規制されたい。拘束されたい。束縛が欲しい。不自由が欲しい。喉から手が出るほど不自由が欲しい。それは性的なことではなく、私自身をもうずっと脅かしている、不能の欲望だ。私は不能になりたい。ふぬけになりたい。何もできなくなりたい。手も足も、首も目も、顔も、耳も、くちびるも、ただそこにあるだけで、何も使うことができず、ただそこにあるだけで、誰かの意志と意思によってのみ行動を始められる、そんな不自由が欲しい。窮屈が欲しい。恐ろしく傲慢だが、私は不自由が欲しい。
かといって、これが全身まひだとかの「本当の」不自由であったら全力でそれを避けようとするのだから、やっぱり私は馬鹿なのだ。傲慢なのだ。頭のなかだけで理想の不自由をつくりだしてそれを崇め奉り現実のものにしようとしている、と自らを規定する。お前は馬鹿だ。不自由や窮屈に幻想を見ているのだ。それが美しく素晴らしいことで、そこに自分の悩み苦しみ思い煩いはなく、だから心の重苦しさや不安とも縁がなく、ただ言われるがままに行動し、誰かの意志と意思を反映するのみの道具と化したいと思い込んでいるのは、それが頭のなかだけで作られた陳腐な虚構だからだ。それは、お前の鬱陶しい思い違いと思い込みをたぶんに投影した、お前の勘違いだ。お前は、自らの行き過ぎた勘違いを理想化し、そこに辿り着けないことで苦しんだふりをしながら、けれど実際に自分の理想とする身体的な不自由が自分に約束されようとしたら、全力でそこから逃げようとする、あれも嫌これも嫌のわがまま放題で、結局みずから何も規定することができず、だから欲しいものもはっきりと分からず、ただ漠然とした不満足を抱えている、どうしようもない頭でっかちなのだ。自分で決めて、自分で進むのが怖いから、いつも誰かに従っていたい。ただ一言それだけの愚かさを、延々と御託を並べて自分の苦しみのように見せかける、お前はただそうやって自分の苦しみもどきと手に手をとり合って遊んでいたいだけの大馬鹿者なのだ。
恋人はいつか私を怖いと言った。私は主体性がない、という私の言葉を、彼はついぞ最後まで信じてはくれなかったが、実際のところ私はきっと本当に主体性がないのだと思う。いつもいつも誰かや何かの意思に従いたがっている私を、命令を待っている私を、その私の行動原理を、怖いと言った。それは正直な反応だと思う。私はおかしい。おかしい人間を怖がるのは、当然のことだ。そうしてまた断定に逃げようとする。私はおかしいのか。私は主体性がないのか。私は怖いのか。私には私が分からない。だけど、「私のこと」を延々と考え続けていられるだけ、私はどうしようもなく暇を持て余した自己愛の塊なんだろう。だから、余計なことを考えてしまうのだろう。もっと充実に逃げる。自分の時間がなくなれば自分について考えることも減るだろう。余計なことを考えてしまうのは、それだけの余裕があるからだ。それだけの余裕を減らせば、きっと苦しみも減るはずだ。もっと予定をぎゅうぎゅうに入れて、あれもこれも欲張って盛り込んで、いろいろやろうとして、意味もなく興味もないくせに、どんどん手を出して、すぐと疲れて死にたくなってしまうくせに、それなのに、忙殺に、救いを見いだす。矛盾している。