2019年8月25日日曜日

苦しみの行方

自分の中にいくつも顔があることが分かった。それは主に社会性を持った自分と持たない自分とに分類され、社会性の薄い自分がこの文章を書いている。社会性の薄い自分は死にたい自分、生きている意味が見出せない自分、何もかも面倒くさい自分、今すぐ落ちて死んでしまいたい自分である。同時に、昼間に外に出て働いている社会性のある自分もいる。そっちの自分は相変わらず周囲からマイペース呼ばわりされるものの、それなりに常識をわきまえ、それなりに社会生活に溶け込み、それなりにまあまあの暮らしを保っている。死なないように、投げやりにならないように、破産しないように、大怪我や障害を負わないように、それなりに気をつけて五体満足で健康体でいられるように生活している。そういう自分と、もう一人の自分との、バランスが取れない。というか、子供の頃から取れた試しがない。躁鬱病とかそういう大げさなものでなく、単に、人といたい自分といたくない自分、生きたい自分と生きたくない自分が交互に出てきて入れ替わっていく。自分でそれをある程度コントロールできるものの、そもそも、なぜコントロールしなくてはいけないのか? と考えると、それはやっぱり社会性のある自分の日常生活のためにまともなふりをする必要があるからで、私は見知らぬ男と行きずりで寝て病気の心配をしたり盗撮や不品行に対する恐喝と強請りの心配をしたくないからだ。

同時に、いまだにピアスを入れたかったり刺青を入れたかったりする自分がいる。いまだにカッターを手首にめり込ませたい自分がいる。それは実生活ではまったく有効に働かないと、大人になってまともに働いている社会性のある自分が知っているからやらないのだ。そして私がそういった戯言をいじくっていられるのも、本当に生死の心配がないから言えるのだと、ギリギリの生活をしている人がいる現状を見てそう思う。本当に切羽詰まっていたら、このようなどうでも良いことは考えられないだろうな、と思う。

私は死にたい。いえ、私は、自分の人生が、つまらないということを知った。私は、自分が、つまらなくて愚かで主人公たる資格がないことを知った。けれども私は、私の恋人といる時は主人公なのである。私たちは、愚かな私たちの物語の中のみっともない主人公として、だけどそれなりに幸せだ。そして虚しい。この虚しさの、対処法が、分からない。とりあえずキム・ギドクの映画を見て、向井秀徳の音楽を聴いて、その場限りの性的少女を気取って、そして寝床に入る時、現実に引き戻される。何が、性的少女か。歳を考えろ。自分を直視しろ。ばかやろう。そういう言葉が頭の中に降って湧き、もう何も考えないと唱える。そうだ、私がブログを書くのを辞めたのは、結局私の言葉が、ここ十年もずっと変わらず同じだからだった。私は歳をとった。しかし同等の進歩はない。歳をとることは悪くない。ただ、自分の苦しさにどんどん鈍くなっていく。わざわざ湖の底を覗き込まなくとも、苦しいことはそここに転がっているようになった。だから自分の中を覗かない。何も考えないことにする。救いは相変わらずない。ただここ何年かで分かったのは、苦しんでいるのは私だけではなく、救いがないのも、私だけではないということ。みんな、苦しんでいた。

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下書きにしていたものを複数公開したので、興味のある方は、さかのぼって読んでください。