2016年7月31日日曜日

お父さん

 私は、この人とは和解をしたけれど、あの人とは和解をしていなかった、ということに、気がついた。私は、この人のことは許したつもりだったけれど、あの人のことは「そのままに受け止めなければいけない」という重圧を自分にかけて、しかもそのことに気がついていなかった。あの人のことを憎んだり恨んだりするのはいけないことだ、あの人に感謝しなければいけない、だってあの人は素晴らしい人なのだから、あの人にだって良い所もあれば悪い所もある、だってあの人も人間なのだから。私は、無意識のうちに、あるいは意識的に、自分にそう言い聞かせていた。自分が子供の頃、あの人から望まれたことは、到底、子供の自分にできることではなかったのに、到底、子供の自分の至らなさを認めて許してくれる態度ではなかったのに、到底、自分が子供で、それゆえ未熟であることを、許して受け入れてくれるものではなかったのに、大人になった私は、あの人も私も、人間なのだから、至らない所があって当然で、それを拡大顕微鏡で大きく見て、わざわざ気にするなんて、と、自分自身の行為と行動を批判している。あの人は、私を、許さなかったのに。

いつも、そう思う。いつも、ここまで書くと、涙が出る。憎みたいわけではない。恨みたいわけでもない。謝って欲しいことでもない。それどころか、時間が元通りになることはないのだから、いつまでも昔のことに拘って覚えている自分に、嫌気がする。そんな細かいことばっかり気にして、とあの人に言われるのではないか、と予想してしまい、その予想に気持ちが参ってしまい、何も考えないように、思い出さないように、恨まないように、私は過去を蒸し返したいわけでは、私はあの人を傷つけたいわけでは、私はあの人を否定したいわけでは、私はあの人を尊敬しているのに、そう思ってしまう。

過去の自分について思い出すと悲しくなるから、思い出さないようにしていた。悲しい、という気分に引きずられて、いらないことまでどんどん思い出されて、それで辛くなってしまうから、自分がいかに不幸で、いかに可哀想で、いかに自分を傷つけ、どうやってそこから生還してきたのかをまで、思い出して、現在の自分に感謝の涙を流すところまでやらないと、満足できなくなってしまって、その姿を他人の目で眺めると、恐ろしく不気味なので、過去のことを思い出すことは、あまり良くない行為だと思っている。過去の悲しみに浸ると、幸せだったこと、嬉しかったこと、褒められたこと、肯定されたことなどが湖の底ふかく沈んで見えなくなってしまって、不幸で悲しくて辛くて可哀想な私ばかりが浮かんできてしまう。違う、本当は、私の過去はそんなに悲しいことばかりではなかったのに、私はそんなに不幸ではないのに、必要以上に、自分で自分を、不幸に仕立て上げてしまう。だから、あまり、過去を思い出したくはない。

私は、どうしたいんだろうと考えた。私は、どうすれば満足なんだろう。何がどうなれば、あの人のことを恨んだり恐れなくて済むんだろう。何がどうすれば、私はあの人の顔色をうかがったり、一度も直接的にかけられたことのない、でもいつでも自分で勝手に予想してくたびれてしまう、あの人の期待にそえない自分を責めることを辞められるんだろう。どうすれば、私はあの人に評価してもらいたい、と思うことを、辞められるんだろう。どうすれば、私はあの人に肯定されたと感じることができるんだろう。どうすれば、私は、あの人は私を見捨てる、という思い込みから抜け出せるんだろう。どうして、私はいつも、あの人から見捨てられることを、勝手に恐れているのだろう。

そこまで考えて、怒りが喉から吹き出しそうになった。叫び声をあげそうになった。だってお前が私を見捨てたんじゃないか。あのときも。あのときも。あのときも。あの時も、あの時も、あの時も。いつも私のことを否定したじゃないか。批難したじゃないか。私を駄目だと言ったじゃないか。私を悪いと言ったじゃないか。私のことを責めたじゃないか。お前がいけない、だからお前は駄目なんだと言ったじゃないか。私はずっと頑張ってきたのに。ずっと頑張っているのに。まだ、ずっと、今も、頑張っているのに。頑張り続けているのに。あと、どうすれば良いの。あと、どうすれば良い。どうすれば認めてくれる。どうすれば、私のことを好きになってくれる。どうすれば、私を、好きになってくれる。
私はただ、お父さん、あなたから愛されていると、実感したいんです。