2018年4月3日火曜日

やりなおしたい過去

やり直せない。

時間は元に戻らない。一方向にしか進まない。許せないことがある。もう何十年も前の、でもずっと耐えてきた、でもそんなことは誰にでもある、誰にでもあるから、問題にするほどのことでもない、でもずっと許せない、ずっと許せない、ずっと許せない、ずっと許せない、ずっと、私は、許していない、ずっと、私は、許せていない。何を? 何が? 何について? 誰に対して? 誰に対して怒っている? 誰から謝ってほしいの?

何もない。

何もない。何もなかった。誰も何も悪くない。誰も何も悪くなかった。私も悪くなかった。もちろん私も悪くなかった。誰の落ち度でもなく、誰が悪いわけでもなく、では何がいけなかったのか、私の運が悪かったのか。

運が悪かった。

運が悪かった。運が悪かった。運が悪かった。運が悪かった。残念、あなたの運が悪かったので、可哀想な目に遭いましたが、それはあなたの落ち度ではなく、相手が悪いのでもなく、たまたま運が悪かっただけで、誰も何も悪くありません、でもたまたま、あなたの運が悪かったのです、たまたま、そういう場面に出くわしただけで、あなたが悪いのではありません、悪いのは、あなたの運で、あなたではありません。

そんな言葉は聞きたくない。そんな言葉は望んでない。そんな言葉を欲してない。そんな言葉に何も救われない。何も救われない。何も救われない。何も救われない。何も、少しも、全然、まったく、どうしようもなく救われない。運が悪かったと聞いてどこの誰が納得できるのだろうか。運が悪かったから仕方がないと、私は納得しなければいけないのだろうか。私の運が悪かったから可哀想な目に遭ったのであって、では私以外の人間にならない限り、私は私から逃れられない。

馬鹿どもが読む自己啓発書を私も読んでいる。苦しみから解放される術を、過去と決別する術を、自分の人生を生きるためには、誰も悪くないんです。そういう見出しが躍る馬鹿馬鹿しい本の山に火をつけたくなる。刃物で自分の体を傷つけるように、私を救わない本に火をつける。刃物で髪の毛を断ち落とすように、自分の体をないがしろにする。何もしたくない、何もしたくない、何もしたくない、誰のことも傷つけたくはない、同時に自分も傷つきたくはない。

「でも、じゃあ、なんで私は傷つけられなくちゃいけなかったんだ?」
「なんで、私は、あんな目に遭わなくちゃいけなかったんだ?」
「私が何か悪いことをしたのか?」
「なんで、私が、事情を汲んで、受け流して、なかったことにして、許さなきゃいけないの?」
「なんで、私が、許さなきゃいけないの?」
「許されてないのに、なんで、私が、相手を、許さなきゃいけないの?」

思い出せない。思い出さなくていい。何も思い出さなくていい。何もなかった。何にもない。なんにもない。なんにもなかった。そして何でもない。忘れてしまう。日常の風景に埋没する。そしてそれは時々地面から少しだけ顔を覗かせて私を嫌な気持ちにさせる。どうにもならないこと、何ともならないこと、取り返しのつかないこと。そしてそれが満ち満ちている。

やり直せない。

2018年3月17日土曜日

Living in the past / 過去に生きると幽霊になる

ヒンディー語で「過去」は bhoot と言い、これには「幽霊」の意味がある(まあヒンディー語は語彙が豊富な言語なので、「過去」や「幽霊」に相当する言葉は他にもある)。だから過去に生きる人は幽霊になる、という言葉がある。私はまさに、過去に生きる幽霊か。

2018年2月13日火曜日

私のストーカー

愕然とした。5歳になる姪っ子の言うことと、私が恋人にふざけて話すさまが、ほとんど違わなかったので、愕然とした。私は「永遠の3歳宣言」を恋人にした。曰く、私は永遠に3歳なので、私に合理性を求めてはいけない、私にまともであることを求めてはいけない、私の言うことを真に受けてはいけない、私の要求は不条理で無茶苦茶であるが、それを否定してはいけない、あなたはそれに応える努力をしないといけない、これは不平等条約で、しかし恋愛というのは不平等なものなので、惚れたあなたが負けで、あなたはこれに従うか、もしくは条約を結ばないという権利はあるが、条約を締結したら必ず履行しなくてはいけない、でもこれはやはり不平等なので、履行しないという選択肢をあなたが選んだとしても無理はないし、私はそれを責めたりしない、条約を結ぶかどうかの選択権はあなたにある。

恋人は、条約は結ぶけど履行しない、それで公正な関係になる、と笑いながら言った。それじゃ駄目、それは選択肢にないと3歳の私があわてて言う。ふざけて笑う。自分の愚かさを笑う。愚かなやり取りを笑う。馬鹿げている。馬鹿馬鹿しい。愚かである。間抜けである。気を許したみっともない姿で、私は彼が苦しいと言うまで彼の上に覆いかぶさる。物理的に体を重ねる。仰向けに寝転ぶ彼の上に腹這いに寝そべり、呼吸のたびに上下する腹部の膨らみを楽しむ。苦しい? と聞く。苦しいと返事がかえってきたら、にんまりと笑う。苦しくていいのだ。あなたは苦しくていい。私は何の気兼ねもせずにここに寝そべっていい。体重をかけていい。私はあなたを苦しめる心配や気遣いをすることなしにあなたのそばにいて良い。だって私は永遠の3歳なのだから。3歳は、人のことなど気を遣わないし、気を遣う必要がない。ただ欲望のおもむくままに振る舞っていいし、それが許される存在である。だから、私は、そうする。

私はこれがしたかった。私はずっとこういうことがしたかった。私が本当の3歳だった時にできなかった、手放しで甘えてわがままを言い、それでも叱られずに可愛がられる経験がしたかった。その機会が手に入って、私はそれを存分に行使する。誰にも悪く言われる筋合いなんかない。誰にも悪く言われることもなく、そもそも誰にも知られることのないこの中年男女の気味の悪いじゃれあい行為を、しかし私が冷静な目で見てしまう。ふと我に返って、鏡に映る自分を見て、乾いた笑いがもれる。私は3歳ではない。3歳にはなれない。姪っ子だって3歳の時期はとうに過ぎた。それなのに、なぜ、私は、子供でいようとするのか。

私は私の子供時代を相手を変えてやり直している。それはずっと前から気づいている。しかし人間は時間を元に巻き戻すことはできない。だから私は私の子供時代をやり直せない。それもずっと前から気づいている。気づいているが、気づかないことにする。だって私は3歳だし、3歳にはそんな難しいことは分からないし、分かる必要もない。

女の子は写真を撮るのが好き

3歳も写真を撮るのが好き