2015年12月31日木曜日

日本に戻った

 新年のために日本に戻った。日本のSIMカードを挿したら、日本の私の携帯電話の番号に、8月から毎月一回ずつ非通知で電話がかかってきていた。私に電話をかける人は誰か考えたけど、分からなかった。
 インドにいる間、私はインドの電話番号を持っており、日本の電話番号を使えないので、ご用の方はメールなどで連絡ください。
dog.the.binary.system@gmail.com
 そしてまたすぐインドに戻ります。日本は家族がいるから楽しい。だけど私はインドにいたいと、改めて思った。

会いに来てくれた家族とジョードプルへ




大学の学生選挙で大量のビラが撒かれていた
ダラムサラからデリーに戻るバス乗り場の夕日
寮の敷地内に咲くブーゲンビリア(と思う)

2015年12月5日土曜日

To be lost

 憎んでいる。恨んでいる。無意識にでてきた言葉はこれだった。私は、まだ、恨んでいる。

 すぐと涙があふれた。嗚咽が続いた。息がしづらいくらいしゃくり上げて、ああ、こういうことをするからいけないんだ、とまた別の心で思う。男の人と映画を見ていた。別の言語だったから分からなくて、その人が顔を近づけて小声で解説をしてくれた。私の左の膝小僧とその人の右の膝が、触れ合っていた。私の肩とその人の肩とが、触れるか触れないか微妙な距離で暗闇の中に並んでいた。

 急に息苦しくなった。すぐと気持ちが悪くなった。息ができない感じがする。呼吸をしてるのに、おなかのなかに息が入って行かない。呼吸をしてるのに、どこか違うところに空気が吸い込まれて行って、私はすごく苦しい。気持ちが悪い、ここを出たい、気持ちが悪い、息ができない、と私は訴え、席を立った。歩こうとしたらふらついて、その人が手を取ってくれた。今までにちゃんと手を使ったことのある、何らかの労働や行為によって実際に使われてきたことで、生活の実際的な知識を持っている、きちんとシワと肉と厚みのある、ふっくらとした手のひらで、温かさを感じた。つまり、私は呼吸困難のために手や足の先が冷たくなっていた。

 手を引かれて映画館の階段を降りる。支え合っている部分が手だけだとふらつくので、今度は肩を抱かれる。ときどき腰や背中も触られる。「さあ、こっちです、大丈夫、私がいますから」知ってます、ありがとう。言葉にならないので心の中で答える。ときどき、私のこの不調は、何なのだろうと思う。まるで自分から誘っているみたいじゃないか。あるいは、相手に付け入る隙を、格好の理由を、それとはなしに与えているみたいじゃないか。違う、そんなことは望んでない。でもそんなことになっても良いかな、と思う自分もいる。頼まれたら、断らない。断れないのかも知れないし、断らないのかも知れないし、自分でもよく分からない。そもそも、もはや頼まれもしなくなってしまったが、頼まれたら、まあ、良いかな、と思う、この性的な主体性のなさの正体は、いったい、なにか。

 このところ、人と話をしていると、自分の見識の狭さにびっくりさせられる。相手は、私の極端さに、びっくりしているらしいが、私は自分を極端だと思ったことはない。それがつまり私の極端さの証拠であり、思い込みの激しさの証拠であり、頑固さの、生真面目さの、心配性の、潔癖さの、完璧主義の、何よりの証拠であるように思われた。

 会社を辞める前、上司から、その極端さと正直さと真っ直ぐさを何とかしないと、周りの人が疲れちゃうよ、と言われたことがある。あなたは真っ直ぐで真面目、正直で正しい、でも正しさだけでは世の中は回らない、いつも正しさを振り回していると、周りの人を傷つけることもある、疲れさせることもある。もう正確な言葉は覚えていないのだが、そんな内容だったように思う。

 私は混乱した。正しくないのなら、何を信じれば良いのか。正しいものを共有できないのなら、私は何を価値基準とすれば良いのか。はっきり言って、本当に、相当に、混乱した。だからそのまま聞き返した。「じゃあ、私はどうすれば良いんでしょう。何を基準にすれば、どう話し合えば、どう言えば、良いんでしょう」上司は困った顔で、ほらね、だから周りが疲れちゃうんだよ、と言った。どうして「周りが疲れちゃう」のか、どうして答えを教えてくれないのか、どうして非難するだけで、私を嗤うだけで、私の問いに答えず、そしてそれが「悪くないこと」なのか、私には分からなかった。どうすれば良いんだろう。「どうすれば良いか、分からないんです。自分が正しいと思ったことをやっているだけで、それの何がいけないか、どうすれば良いか、本当に分からないんです」

 分からないことだらけである。他人の気持ちが、分からない。どうしてそんなに大雑把に考えられるのか、分からない。どうしてそんなに適当に考えられるのか、分からない。どうしてそんな曖昧さを許せるのか、分からない。徹底的に、分からない。分からないから、考えるのをやめた。分からないから、関わるのをやめた。「友達」と友達のふりをするのをやめ、必要なもの以外は一切関わるのをやめ、残ったのは家族と恋人と映画館と本屋と、つまり生活の範囲がそれのみになって、私の生活はとても快適になった。これで誰からも文句を言われなくて済む。あの「変わってるね」攻撃を受けなくて済む。もう傷ついたり疲れたりしなくて済む。私は私に満足している。私は私に満足していた。

 だけど、最近、人と話をしていると、私はなんて狭量な人間なのだろうと思わされる。私は嫌なことすべてから逃げ出した。それと関わる意味はないと思ったし、それを続けて得る利益と、それをやめることで得られる利益とを天秤にかけると、どうしたって続ける意味はないと思われた。私は私の価値基準に則って「正しい」判断をした。だけどそれが人を苦しめるという。それが人を傷つけるという。じゃあ、どうすれば良いんだろう。私は「私」が「傷ついて」も、「これを続けるべき」だったんだろうか。「私」の「判断」は「間違って」いたんだろうか。

「だから、それが堅苦しいんだよ。もっと気楽に考えて、答えを出さずに、曖昧にすることだってたまには大事なんだよ」

 たまにって、どのくらいの頻度なんでしょう、と聞きたいところを堪えて頷く。多分それを聞いたら、また相手は気分を害するだろうから。ほら、またそうやって基準を求める、と相手に言わせしめる格好の材料を与えることになるから、黙って、堪えて、頷く。

 私には、分からない。人の気持ちも、自分の気持ちも、分からない。「どうしたいですか」分からないです。「何でも、あなたの行きたいところ、したいことをしましょう」分からないです。男の人を喜ばせるのはものすごく簡単で、逆らわないことである。逆らわない、反論しない、黙って従う。相手の言葉の内から意向を読み取り、さも自然な本心であるかのようにそれを振舞って見せる。それが、私の持っているもっとも優れた能力であり、同時に、短時間しか使えない駄目な能力でもある。また、大抵の男の人の意向というのはほぼ全部同じなので、それに答えようとすると私は間違いなくその人達と寝なければいけない。でも、別にいい。正直に言って、どうでもいい。それは私にとって大したことじゃない。ただ男の人と寝たあとに、その人達がこの行為に満足したかどうか確かめたいだけである。「私」が「本当に」「その人の望みを満たせたのかどうか」を「確認」したいだけなのだ。私の関心はその人の眼球の黒眼に映る「私」でしかない。つまり自分のことしか考えてない。そしてそれを極端だと自覚できない。私の中でその一連の行為は矛盾のないものとして通用するので、それを極端だと批評されると、また考え込んでしまう。「どこが極端なのか」「何が極端なのか」そして「どうすれば良かったんだろう」

 私の不幸は、自分で答えを出せないことか。あるいは批判に弱く、開き直れないことか。誰もが納得しうる答えなんてない、というのは、正論である。そしてここでもまた正論に依拠していることに、批判されるのではないかと怯える。結局、誰からも嫌われたくないらしい。結局、誰とも事を荒立てたくないらしい。結局、みんなに良い顔をしていたい。でも二十四時間、自分を殺してご奉公するほどの根性もないらしい。結局、私はただの根性なしか。分からない。

 自己肯定感や境界性人格障害についての記事を読んでまた考える。自分をこの手のものに当てはめるのは簡単である。だけど問題は、原因ではなくて、私はそこから脱却したい、ということである。原因を求めるのは簡単で、私が覚えている一番小さい頃の苦い記憶にあるのだろう。十代の頃はその悲しい記憶で苦しんだ。向精神薬をのむようになって、それまでも曖昧で心許なかった記憶がさらに信用のおけないものとなり、そのうちにその記憶自体が本物かどうか自分でかなり疑わしくなってしまい、思い出して悲しむことが煩わしくなった。トラウマなんてこんなものである、という諦めの境地である。

 書いていて鼻血が出たのでここでやめる。結局、私は、何がしたいのか。インドに来て、会う人みんなに、このあとどうするのかと聞かれた。答えられないでいると、「じゃあ、何でも思い通りになるとして、お金の心配も何もいらないとして、何でもして良いよって言われたら、何がしたい?」と聞かれた。そんなことは考えてもみなかった。そして改めて考えてみても、やっぱり「分からない」。何でもして良いと言われたら、透明になりたい。誰にも見られたくない。誰とも関わり合いになりたくない。本当はものすごく接触に飢えているくせに、私の願望は「消えたい」なのだった。

2015年6月25日木曜日

死にたい

 死にたい。

 死にはしないのだが、実行には移さないのだが、殺人は最大の徒労らしいのだが、自殺する気もないのだが、ただ何だかもう、心の中の、腹の底からの、正直で率直な一つの欲求として、疲れてしまった、疲れてしまったので、もう疲れたくない。もう、疲れないために、もう、ここにいたくない。もう、ここに存在していたくない。もう、これ以上、疲れたくない。もう、疲れることに、くたびれた。もう、くたびれたくない。もう、何も、感じたくない。楽になりたい。楽になって、眠りたい。眠りたい。何も考えないで、ぐっすり、休みたい。

2015年2月22日日曜日

目をつむって眠ること

 言葉は無力だと思う。相変わらず肝心のことに限って失語症気味である。正確には、私は失語症ではない。喋れる。喋ることができる。ただ、本当に大事なことは、口にするのが、難しい。だから黙ってしまう。日本にいても、どこにいても、私はやっぱり、自分の根幹に関わることは、話せなかった。端から他人が理解を示してくれることを期待していない(つまり逆説的には理解を示してほしいのか)ので、話すだけ自分が不安と期待に苛まれて、結果心打ち砕かれることになると思うと、口を開けない。

 いろいろ考えるにつけ、私の自殺願望はすこしも止まっていないのではないか、と思わされる。いや、自殺願望なんかではなく、ただ生きること、生きていくこと、生き続けること、その先に対して、私の望むものはない、という実感が、厳然とある。私は生きる。でも喜びはない。そういう感じがする。

 あなたはどうしてそんなに達観しているのか。あなたはどうしてそんなに堂々としていて、そして諦観があるのかとときどき問われる。面倒くさいから知らんぷりをするが、心の裡で、それは、私が私の生に何の希望も抱いていないからです、と答えている。絶望しているわけではない。死にたいわけではない。苦しみがあるわけではない。ただ、欲しいものは、手に、入らない。そう思っている。ではあなたは何が欲しいのか。私もしばらく考えた。紙に書いてみたり、森田療法の本を読んでみたり、自分に素直に聞いてみたり、いろいろ考えてみた。そうして分かった。私は、何も考えないこと、を、望んでいた。私は、選択の責任の重さから解放されること、を、望んでいた。私は、目をつむって眠ること、を、望んでいた。私は、誰かに、何も考えなくていいよ、と言ってもらいたいのだった。私は、誰かに、おやすみと言って、何の心配も不安も明日の予定も天気もお金も仕事も将来も、何も考えることなしに、明日を思うことなしに、眠り続けたいのだった。私は子供の心持ちで生きていきたいのだった。自分で選ぶことなしに、誰かの言いなりになって、そして誰かの庇護を受けて、庇護と保護を受けていることすら自覚することなしに、つまり、当然のこととして受け止めて、感謝も恩返しも考えずに、ずっとずっとそのままでいたいのだった。自分に対して、まわりに対して、目をつむって、目をつむり続けていたいのだった。それはたぶん、私が子供のころから出来ないでいた、無意識で図々しく存在する方法なんだろう—自分に対して思いをめぐらせないこと、周りに対して、自分が何をすべきかを意識しないこと、無防備で、そのままであること。

 そしてそれは絶対に手に入らない。

デリーの安ホテルで、朝日が入るように、夜に部屋のブラインドを上げると、外にときどき貧弱な電飾が垂れていた
デリーの安ホテルで、朝日が入るように、夜に部屋のブラインドを上げると、外にときどき貧弱な電飾が垂れていた