2018年2月13日火曜日

私のストーカー

愕然とした。5歳になる姪っ子の言うことと、私が恋人にふざけて話すさまが、ほとんど違わなかったので、愕然とした。私は「永遠の3歳宣言」を恋人にした。曰く、私は永遠に3歳なので、私に合理性を求めてはいけない、私にまともであることを求めてはいけない、私の言うことを真に受けてはいけない、私の要求は不条理で無茶苦茶であるが、それを否定してはいけない、あなたはそれに応える努力をしないといけない、これは不平等条約で、しかし恋愛というのは不平等なものなので、惚れたあなたが負けで、あなたはこれに従うか、もしくは条約を結ばないという権利はあるが、条約を締結したら必ず履行しなくてはいけない、でもこれはやはり不平等なので、履行しないという選択肢をあなたが選んだとしても無理はないし、私はそれを責めたりしない、条約を結ぶかどうかの選択権はあなたにある。

恋人は、条約は結ぶけど履行しない、それで公正な関係になる、と笑いながら言った。それじゃ駄目、それは選択肢にないと3歳の私があわてて言う。ふざけて笑う。自分の愚かさを笑う。愚かなやり取りを笑う。馬鹿げている。馬鹿馬鹿しい。愚かである。間抜けである。気を許したみっともない姿で、私は彼が苦しいと言うまで彼の上に覆いかぶさる。物理的に体を重ねる。仰向けに寝転ぶ彼の上に腹這いに寝そべり、呼吸のたびに上下する腹部の膨らみを楽しむ。苦しい? と聞く。苦しいと返事がかえってきたら、にんまりと笑う。苦しくていいのだ。あなたは苦しくていい。私は何の気兼ねもせずにここに寝そべっていい。体重をかけていい。私はあなたを苦しめる心配や気遣いをすることなしにあなたのそばにいて良い。だって私は永遠の3歳なのだから。3歳は、人のことなど気を遣わないし、気を遣う必要がない。ただ欲望のおもむくままに振る舞っていいし、それが許される存在である。だから、私は、そうする。

私はこれがしたかった。私はずっとこういうことがしたかった。私が本当の3歳だった時にできなかった、手放しで甘えてわがままを言い、それでも叱られずに可愛がられる経験がしたかった。その機会が手に入って、私はそれを存分に行使する。誰にも悪く言われる筋合いなんかない。誰にも悪く言われることもなく、そもそも誰にも知られることのないこの中年男女の気味の悪いじゃれあい行為を、しかし私が冷静な目で見てしまう。ふと我に返って、鏡に映る自分を見て、乾いた笑いがもれる。私は3歳ではない。3歳にはなれない。姪っ子だって3歳の時期はとうに過ぎた。それなのに、なぜ、私は、子供でいようとするのか。

私は私の子供時代を相手を変えてやり直している。それはずっと前から気づいている。しかし人間は時間を元に巻き戻すことはできない。だから私は私の子供時代をやり直せない。それもずっと前から気づいている。気づいているが、気づかないことにする。だって私は3歳だし、3歳にはそんな難しいことは分からないし、分かる必要もない。

女の子は写真を撮るのが好き

3歳も写真を撮るのが好き