2014年12月3日水曜日

行方不明

  深々と信じている人達の言うことを聞いていると、やっぱり頭が悪いかおかしいかのどちらかにしか思えない。つまるところ、「疑わないこと」がその根底に揺るがなく横たわっていて、そして「疑わない」のは無知や馬鹿だけである。無知でも馬鹿でもない私は「疑う」。本当にそれで良いんですか? 本当にそれで大丈夫ですか? 本当に本当にこれで合っていますか? 自分の目で見、耳で聞き、足で歩き、確認する。安心と納得を得る。それが私のやり方で、ときどき、どうにも確認できないことや、自分ではどうしようもないことに行き当たって、苦しむことがある。信じることがある人はそれを、抛っておきなさい、と言う。自分でどうにもできないことは、自分以外の神様の思し召しだから、抛って、成り行きを見詰めなさいと言う。それは、これから起こる悪い出来事に身を任せて指を咥えて見ているのと何が違うのかと、私は思う。静観することなんて、流れに身を任せることなんて、私には恐ろしくてできない。そう、恐ろしいのだ。身を任せることの根底には、恐怖がある。絶対的な信頼がないものに、どうして自分の全存在を任せられようか。どうして、その「絶対」が、私を見棄てないと、信じられるのか。

  結局、ここに亀裂が生まれる。信じられる人と、信じられない人では、物事に対する安心感が違う。信じられる人の物事へのしなだれ方は、私にはできない。それは、子供が親の膝に頭を乗せて甘えるのと同じくらい、その膝が自分を足蹴にすることもなく、頭を撫でてくれる親の掌が、急と自分を攻撃するかも知れないことをまるで疑わない、そう、まるで疑わない馬鹿のすることなのだ。子供であることは、疑わないことである。それが、私には、できない。そして、心の底から、私は自分の猜疑心を抛棄することを、望んでいる。それはつまり、疑わないこと、馬鹿になること、自分を失くすこと、だ。恐怖心がそれの邪魔をする。他人を値踏みする目が、私に、この人は本当に私を失くすだけの価値がある人かをまた疑わせる。
「結局、どうしたいですか」
「結局、何も考えたくないんです」
  それはつまり、死にたいんです、と同じ意味なんだけど、死にたいわけではなく、自分を失くしたいんです。