2013年5月13日月曜日

死へ伸びる希望

 「タイガー伝説のスパイ」を劇場で見たあと、家へ帰って母の日をおこない、借りていた「魚と寝る女」「ラジュー出世する」を見る。

 インドから帰ってきてからボリウッド映画にはまり、日本で見られるだけのボリウッドをあれこれ見ては喜び面白がり日々の楽しみにしていた。ボリウッドは面白い。歌って踊ってコミカルでまぬけで可愛い。先の読める勧善懲悪もののストーリーで、主人公達が頑張って頑張って最後は正義が勝つ。キスシーンもラブシーンもなく(禁忌を破る作品もあったが)暴力シーンでさえ韓国映画のような強烈な残酷さはない。もっとも恐ろしいシーンは画面に映らない。それを連想させるような描写をするのみで、腕を切ったり爪を剥いだり太ももにドライヤーを押しつけたり目玉をくりぬいたりする、そういう韓国映画特有の残酷描写は、少なくとも私が見たボリウッドの中にはなかった。愛情が大切、家族が大切、神様が大切、何よりも平和が大切。ボリウッドはいつもそう説く。それが良かったし、それが好きだった。私もそうなりたいな、と思える良いストーリーだった。

 ところが、探してもどこにもないと思っていた「魚と寝る女」を見つけたので借りてしまった。そうして見てしまった。「春夏秋冬そして春」や「弓」、もしかしたら「絶対の愛」まで続くかも知れないギドクの根幹がここにあって、私は本当に泣きながら見てしまった。映画評を書くのが本当に下手糞なので書かないが、私はやっぱりギドクが大好きで、ギドクを知ることができて本当に良かった、と思った。そうしてそのあと、あれだけ好きだ、恰好いい、最高、と思っていたシャールク・カーンが出ている「ラジュー出世する」が全然楽しめなくて、心底からがっかりした。あんなに好きだったボリウッドが、急に目に入らなくなった。

 ギドクの作品はいつも、半分この世にいない人達が主人公だ。体は生きている。だからご飯も食べるし仕事もするしセックスもできる。だけど心が生きていない。死んでいるのではなくて、元から生きていない。かつて生き生きと鼓動を刻んでいた心が何かの拍子に壊れて死んでしまったというような、そういうわけではなくて、もともと作動がうまくいかない心を持っている人達が、いよいよ自分より外側にある物事について心を反応させることをやめてしまった。そんな、生きてはいるけれどもいつも心がここにない、意識の半分がどこかへ行ってしまっている人達が主人公だ。

 生きている体と生きていない心を持った、体から心がちぎれて離れそうな人々が、どうにかこうにか普通の暮らしの中に自分を留めてはいるが、あるとき、自分と同じ種類の人間に出会って、完全に生きることをやめてしまう。死ぬわけでもなく、生きづらい自分達の居場所をこの世に作るでもなく、積極的に互いの生きづらさを確認するわけでもなく、ただ、消極的にも何とか持っていた生への意志と意思を、ついに手放してしまう。生きても良い。死んでも良い。今日のことも明日のことも生活のこともなにも考えない。この世と関わって自分があることを、やめてしまう。自分の体を、手放してしまう。ギドクの作品はそういったファンタジーだと思う。実際に人間はそんな風にしては生きられないのだが、主人公達は夢とも幻ともつかない不思議な世界へ漂っていって帰らなくなる。この世に時分の存在をとどめておく努力を、ついに抛棄する。私は、それが、たまらなく、羨ましい。

 ボリウッドは生へ伸びる希望だ。生きていれば、頑張っていれば、真面目に善人であれば、きっと神様が助けてくださる。神様、私たちはあなたなしでは生きられません。神様、あなたの愛がなければ、私たちは生きられません。そう歌う映画を何本もみた。そのたびに、神様がある、宗教がある人達を羨ましく思った。自分たちの生と死を何ものかに預け、ゆだね、全幅の信頼をおいて、その人のために生きる。その生活は、さぞかし穏やかで安寧に満ちているのではないか。私も神様がほしい。私も私の信じるところが欲しい。そうしていけば、つまるところ、私は神様の思し召すままと自分に言い訳をして、肯定的かつ建設的に生きていけるのではないか。神様、あなたのために生きていきますと自分に大義名分を設けて、明るい方へ向かっていけるのではないか。私はボリウッドを見て、そう思った。

 ところが一方で、私には私の生と性を抛棄することへの強烈な憧れがある。止みがたい抑えきれない誘惑がある。ああもう何もかも考えずにこのまま深く眠ってしまいたいな、と思うことがある。それは死でも絶望でもなく、穏やかなるものへの希望だ。このまま、自分の手を離してしまいたい。この世という土地にしがみついて、その淵に生えているわずかばかりのつるつると滑る苔に爪を立てて、どうにかこうにかこの島から離れないようにしている、だけど生温い水の中に漂って陸に上がれないでいる、どっちつかずの自分の手を、いまここで離してみたいな。そう思うことがある。そう思うときがある。今日のことも明日のことも、家族のこともこの先のことも、何もかも考えずに、そのまま、手を離してしまいたいな。手を離した私は、ただ仰向けになって、水のうえに浮かんでいる。沈んでも良いし、漂っても良い。どこに行っても良い。どこにも行かなくても良いし、何もしなくて良い。ただ目を閉じて、微笑んで、なにも考えない。なにも考えたくないし、なにも考える必要がない。なにもこの手にはない。なくて良い。穏やかで満ち足りた心で、微笑んで、浮かんでいる。そんな理想が、たしかに私の中にある。ギドクの映画は、私にその理想を思い出させる。この世で生きて存在することの疲れを思い出させる。私を、私の理想へと誘ってくる。

 ボリウッドを見ていると、元気になる。前向きで建設的で肯定的な良い気持ちになる。頑張ろう。頑張らなくちゃ。人生ってすばらしい。そんなおめでたい、幸福な気持ちになる。活力がわいてきて、明日も頑張ろう、周りの人にもっと優しくしようと思う。それはとても良い影響で、私はその影響が受けたくてもっと、もっととボリウッドを見ていた。一生懸命に見ていた。ところが一方で私は、私の生を手放すことを夢に見る。そうなったら良いな。そうなったら、私は幸せだろうな。そういう気持ちが抑えられない。この正反対に伸びる私の希望は、いったい何なのだろう。いったい私は、どちらへ行きたいのだろう。どちらへ進みたいのだろう。そう考えるといつも、理性は生へ、気持ちは生からの解放を、望む。解放って、何なのだろう。生きるも死ぬも自分次第で、どちらにも自由に転ぶことができるのに、私はいまだに覚悟が決められないでぐずぐずしている、そういう意志薄弱者ということなのかな。

2013年5月5日日曜日

鏡ばかり見ているとノイローゼになる

 夜になると理性がどこかへ行ってしまう。夜になると前向きで建設的な私が消え、身勝手で自分だけが可愛くて可哀想な、欲望に享楽的な私が台頭する。欲望に享楽的な私は思う。死にたい。誰か私の目と耳と口と鼻を塞いでください。私に何も入らないように、私から何も出ないように、私に何も気持ちの悪いものが触れないように、私がそれに、一切気が付かないように、私をなにも分からなくしてください。私が苦しまないように、私が恐れないように、私が不安を感じないように、何も分からなくなれば、何も怖がらなくて済むから、何も分からないように、私が何も分からないように、誰か私の目と耳と口と鼻を優しく塞いで、それから首もそっと絞めて下さい。

 子供のころ繰り返しみた夢がある。人に話すとたいてい笑われるのだが、通っていた保育園がバルタン星人に襲撃され、大人も子供もみな白いビームのようなものを浴びてそこら中で煙が上がり火花が散り、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。小さかった私は、部屋の柱と柱の隙間の影に隠れてそれを見ている。みんなが次々とやられていくのを泣きながら震えながら怯えながら見ている。どうかこっちに気が付きませんように。あの黒くて蟹だか海老だかよく分からない怪物が、こっちに気が付きませんように。あの人達が早くどこかに行ってくれますように。私は自分の命が助かることばかり念じている。するとその声が聞こえたのか、それまでこちらに背を向けていた一人のバルタン星人が振り向き、柱の隙間にいる私に気付く。私は、もうこれで終わりだ、どうしようと思い、体が硬直して動かなくなる。バルタン星人に表情はないはずだが、なぜか自分よりも弱い獲物を見つけた人特有のあの満足の笑みを浮かべてゆっくりとこちらに近づいてくる。ゆっくりゆっくり近づいて、吐息が顔にかかるまで近づいて、もう終わりだ、と私が思うと目が覚める。

 それ以外にも似たような夢を繰り返し見た。どれも共通するのは、目の前で惨事が繰り広げられ、私はそこの傍観者であること。惨事を引き起こした張本人が楽しげに破壊と殺戮を繰り返すが、私に気が付かないこと。私はその状況の中のたった一人の生き残りで、周りには誰も助けがいないこと。どうか、どうかどうかこの破壊者が私に気が付きませんようにと願うと、なぜか気付かれてしまうこと。そうして愉しみと悦びに充ちた目が近づいてきて、ああもう終わりだ、と思うこと。そうして私は恥も外聞もなく命乞いをし、破壊者に取り入って事無きを得ること。バルタン星人の夢で、私は殺される前に目が覚めるが、他の夢の中の私はみんな、命乞いをして破壊者の足許にひざまずき、その低い姿勢が認められて破壊者の寵愛を受けるという、文章にすると何とも陳腐で気恥ずかしいが、毎度毎度お決まりのストーリー展開であった。

 このごろ私が思うのは、私は現実にそのようなストーリーを探しているふしがある、ということである。もっと直裁に言えば、私にはそのような状況におかれたいという強い欲望がある、ということを、このところ否定できなくなっている。

 不安、恐れ、悲しみ、寂しさ、人間が生きていく上で回避不能のこの感情と出来事から、一切解放されたいという気持ちが、だんだん強くなってきている。そうして実際には、それから解放されるためには死ぬしかないと分かっているから、欲望が満たされない不満を抱えている。いや、一つだけ、たった一つだけ死なないでそれから逃れる方法があって、それは私の一切すべての生と性を他人に預けきってしまうことである。生きることも死ぬことも人任せ、食べることも眠ることも、風呂に入ることも入らないことも、出掛けることも明日のことも、自分に関する何もかもの一切すべてに、自分の意思と意志を持たないこと。自分の意思がなくなれば、不安も苦しみもなくなる。悲しみも寂しさもなくなる。欲求がなければ、失望もうまれない。喜びもないだろうが、苦悩もない。一切がなくなる。それを望んでいる。それを現代社会で具体的な動作と言葉に当てはめてみると、洗脳、入信、赤ちゃんプレイということになり、私はとてもこれを大きな声で人に望めない。

 夜になると理性が飛んで、私は自分の一切から解放されたいという欲望に押しつぶされそうになる。死なないのであれば、せめて苦しみから解放されたい。苦しみから解放されないのであれば、こんなに苦しんでまで生きていたくない。だけど私が死ねば家族が傷つくので、少なくとも両親より先に死なないと決めた私はまだ死ねない、まだ死ねないのであれば、なんとか生きる喜びがほしい、生きる喜びがないのであれば、私は私の一切から生きながらにして解放されたい、しかしそれは社会的に死ぬことと何が違うのか、私の強すぎる欲望を具現化して、それで私の家族は傷つかないか、私の強すぎる欲望が現実になったとき、それで私以外の一体誰が喜ぶのかと思うと、とても実行する気になれない。だけれども、そうとなれば、私はこのままずっと苦しみの渦のままか、一切から解放されたいという欲深い欲望を抱えたまま、朝の光の健全さにすがって、それをまるで自分のもののように思いこんで、前向きな健全さを装って社会にとけ込み、日が暮れてから、自分のひどい嘘と矛盾にうんうん唸る、それが私のこの先の一生かと思うと、なんとも、気が重くなる。

 そうしてここまで書くと、だいぶすっきりして、私は理性を取り戻す。なんということを望んでいるのかと、自分の直截かつ率直な欲望に驚き、戸惑い、恥ずかしさを覚え、次に恐れる。はっきり言って、打ちのめされる。私の頭は大丈夫なのか、私はどこかおかしいのではないだろうか、という思いに、打ちのめされる。

 朝のうちは大丈夫で、理性を取り戻して前向きになれるのに、夜になるとどこからともなく紫色の渦をまいた不安がやってきて私を取り込む。私を苛む。そんなものに取り合わないで無視してさっさと寝てしまえば良いのだが、そうすれば翌朝そんなことはすっかり忘れて、また健全で前向きな気持ちでいられるのだが、こう毎晩のように不安がやってきて、朝はそれから解放されてと、朝と晩でまるで違う気分に支配されることにほとほと疲れてしまう。それでまた、私はおかしいのではないかと思いはじめてしまう。しかし「鏡ばかり見ているとノイローゼになる」。夜になると私はのぞかなくていい鏡をのぞきこんでしまうのだ。だけど、のぞかなくていい鏡なら、なぜそこにあるのか、とまた考えてしまう。考えると胸がつぶれる。だからなにも考えないようにする。