「タイガー伝説のスパイ」を劇場で見たあと、家へ帰って母の日をおこない、借りていた「魚と寝る女」「ラジュー出世する」を見る。
インドから帰ってきてからボリウッド映画にはまり、日本で見られるだけのボリウッドをあれこれ見ては喜び面白がり日々の楽しみにしていた。ボリウッドは面白い。歌って踊ってコミカルでまぬけで可愛い。先の読める勧善懲悪もののストーリーで、主人公達が頑張って頑張って最後は正義が勝つ。キスシーンもラブシーンもなく(禁忌を破る作品もあったが)暴力シーンでさえ韓国映画のような強烈な残酷さはない。もっとも恐ろしいシーンは画面に映らない。それを連想させるような描写をするのみで、腕を切ったり爪を剥いだり太ももにドライヤーを押しつけたり目玉をくりぬいたりする、そういう韓国映画特有の残酷描写は、少なくとも私が見たボリウッドの中にはなかった。愛情が大切、家族が大切、神様が大切、何よりも平和が大切。ボリウッドはいつもそう説く。それが良かったし、それが好きだった。私もそうなりたいな、と思える良いストーリーだった。
ところが、探してもどこにもないと思っていた「魚と寝る女」を見つけたので借りてしまった。そうして見てしまった。「春夏秋冬そして春」や「弓」、もしかしたら「絶対の愛」まで続くかも知れないギドクの根幹がここにあって、私は本当に泣きながら見てしまった。映画評を書くのが本当に下手糞なので書かないが、私はやっぱりギドクが大好きで、ギドクを知ることができて本当に良かった、と思った。そうしてそのあと、あれだけ好きだ、恰好いい、最高、と思っていたシャールク・カーンが出ている「ラジュー出世する」が全然楽しめなくて、心底からがっかりした。あんなに好きだったボリウッドが、急に目に入らなくなった。
ギドクの作品はいつも、半分この世にいない人達が主人公だ。体は生きている。だからご飯も食べるし仕事もするしセックスもできる。だけど心が生きていない。死んでいるのではなくて、元から生きていない。かつて生き生きと鼓動を刻んでいた心が何かの拍子に壊れて死んでしまったというような、そういうわけではなくて、もともと作動がうまくいかない心を持っている人達が、いよいよ自分より外側にある物事について心を反応させることをやめてしまった。そんな、生きてはいるけれどもいつも心がここにない、意識の半分がどこかへ行ってしまっている人達が主人公だ。
生きている体と生きていない心を持った、体から心がちぎれて離れそうな人々が、どうにかこうにか普通の暮らしの中に自分を留めてはいるが、あるとき、自分と同じ種類の人間に出会って、完全に生きることをやめてしまう。死ぬわけでもなく、生きづらい自分達の居場所をこの世に作るでもなく、積極的に互いの生きづらさを確認するわけでもなく、ただ、消極的にも何とか持っていた生への意志と意思を、ついに手放してしまう。生きても良い。死んでも良い。今日のことも明日のことも生活のこともなにも考えない。この世と関わって自分があることを、やめてしまう。自分の体を、手放してしまう。ギドクの作品はそういったファンタジーだと思う。実際に人間はそんな風にしては生きられないのだが、主人公達は夢とも幻ともつかない不思議な世界へ漂っていって帰らなくなる。この世に時分の存在をとどめておく努力を、ついに抛棄する。私は、それが、たまらなく、羨ましい。
ボリウッドは生へ伸びる希望だ。生きていれば、頑張っていれば、真面目に善人であれば、きっと神様が助けてくださる。神様、私たちはあなたなしでは生きられません。神様、あなたの愛がなければ、私たちは生きられません。そう歌う映画を何本もみた。そのたびに、神様がある、宗教がある人達を羨ましく思った。自分たちの生と死を何ものかに預け、ゆだね、全幅の信頼をおいて、その人のために生きる。その生活は、さぞかし穏やかで安寧に満ちているのではないか。私も神様がほしい。私も私の信じるところが欲しい。そうしていけば、つまるところ、私は神様の思し召すままと自分に言い訳をして、肯定的かつ建設的に生きていけるのではないか。神様、あなたのために生きていきますと自分に大義名分を設けて、明るい方へ向かっていけるのではないか。私はボリウッドを見て、そう思った。
ところが一方で、私には私の生と性を抛棄することへの強烈な憧れがある。止みがたい抑えきれない誘惑がある。ああもう何もかも考えずにこのまま深く眠ってしまいたいな、と思うことがある。それは死でも絶望でもなく、穏やかなるものへの希望だ。このまま、自分の手を離してしまいたい。この世という土地にしがみついて、その淵に生えているわずかばかりのつるつると滑る苔に爪を立てて、どうにかこうにかこの島から離れないようにしている、だけど生温い水の中に漂って陸に上がれないでいる、どっちつかずの自分の手を、いまここで離してみたいな。そう思うことがある。そう思うときがある。今日のことも明日のことも、家族のこともこの先のことも、何もかも考えずに、そのまま、手を離してしまいたいな。手を離した私は、ただ仰向けになって、水のうえに浮かんでいる。沈んでも良いし、漂っても良い。どこに行っても良い。どこにも行かなくても良いし、何もしなくて良い。ただ目を閉じて、微笑んで、なにも考えない。なにも考えたくないし、なにも考える必要がない。なにもこの手にはない。なくて良い。穏やかで満ち足りた心で、微笑んで、浮かんでいる。そんな理想が、たしかに私の中にある。ギドクの映画は、私にその理想を思い出させる。この世で生きて存在することの疲れを思い出させる。私を、私の理想へと誘ってくる。
ボリウッドを見ていると、元気になる。前向きで建設的で肯定的な良い気持ちになる。頑張ろう。頑張らなくちゃ。人生ってすばらしい。そんなおめでたい、幸福な気持ちになる。活力がわいてきて、明日も頑張ろう、周りの人にもっと優しくしようと思う。それはとても良い影響で、私はその影響が受けたくてもっと、もっととボリウッドを見ていた。一生懸命に見ていた。ところが一方で私は、私の生を手放すことを夢に見る。そうなったら良いな。そうなったら、私は幸せだろうな。そういう気持ちが抑えられない。この正反対に伸びる私の希望は、いったい何なのだろう。いったい私は、どちらへ行きたいのだろう。どちらへ進みたいのだろう。そう考えるといつも、理性は生へ、気持ちは生からの解放を、望む。解放って、何なのだろう。生きるも死ぬも自分次第で、どちらにも自由に転ぶことができるのに、私はいまだに覚悟が決められないでぐずぐずしている、そういう意志薄弱者ということなのかな。
2013年5月13日月曜日
2013年5月5日日曜日
鏡ばかり見ているとノイローゼになる
夜になると理性がどこかへ行ってしまう。夜になると前向きで建設的な私が消え、身勝手で自分だけが可愛くて可哀想な、欲望に享楽的な私が台頭する。欲望に享楽的な私は思う。死にたい。誰か私の目と耳と口と鼻を塞いでください。私に何も入らないように、私から何も出ないように、私に何も気持ちの悪いものが触れないように、私がそれに、一切気が付かないように、私をなにも分からなくしてください。私が苦しまないように、私が恐れないように、私が不安を感じないように、何も分からなくなれば、何も怖がらなくて済むから、何も分からないように、私が何も分からないように、誰か私の目と耳と口と鼻を優しく塞いで、それから首もそっと絞めて下さい。
子供のころ繰り返しみた夢がある。人に話すとたいてい笑われるのだが、通っていた保育園がバルタン星人に襲撃され、大人も子供もみな白いビームのようなものを浴びてそこら中で煙が上がり火花が散り、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。小さかった私は、部屋の柱と柱の隙間の影に隠れてそれを見ている。みんなが次々とやられていくのを泣きながら震えながら怯えながら見ている。どうかこっちに気が付きませんように。あの黒くて蟹だか海老だかよく分からない怪物が、こっちに気が付きませんように。あの人達が早くどこかに行ってくれますように。私は自分の命が助かることばかり念じている。するとその声が聞こえたのか、それまでこちらに背を向けていた一人のバルタン星人が振り向き、柱の隙間にいる私に気付く。私は、もうこれで終わりだ、どうしようと思い、体が硬直して動かなくなる。バルタン星人に表情はないはずだが、なぜか自分よりも弱い獲物を見つけた人特有のあの満足の笑みを浮かべてゆっくりとこちらに近づいてくる。ゆっくりゆっくり近づいて、吐息が顔にかかるまで近づいて、もう終わりだ、と私が思うと目が覚める。
それ以外にも似たような夢を繰り返し見た。どれも共通するのは、目の前で惨事が繰り広げられ、私はそこの傍観者であること。惨事を引き起こした張本人が楽しげに破壊と殺戮を繰り返すが、私に気が付かないこと。私はその状況の中のたった一人の生き残りで、周りには誰も助けがいないこと。どうか、どうかどうかこの破壊者が私に気が付きませんようにと願うと、なぜか気付かれてしまうこと。そうして愉しみと悦びに充ちた目が近づいてきて、ああもう終わりだ、と思うこと。そうして私は恥も外聞もなく命乞いをし、破壊者に取り入って事無きを得ること。バルタン星人の夢で、私は殺される前に目が覚めるが、他の夢の中の私はみんな、命乞いをして破壊者の足許にひざまずき、その低い姿勢が認められて破壊者の寵愛を受けるという、文章にすると何とも陳腐で気恥ずかしいが、毎度毎度お決まりのストーリー展開であった。
このごろ私が思うのは、私は現実にそのようなストーリーを探しているふしがある、ということである。もっと直裁に言えば、私にはそのような状況におかれたいという強い欲望がある、ということを、このところ否定できなくなっている。
不安、恐れ、悲しみ、寂しさ、人間が生きていく上で回避不能のこの感情と出来事から、一切解放されたいという気持ちが、だんだん強くなってきている。そうして実際には、それから解放されるためには死ぬしかないと分かっているから、欲望が満たされない不満を抱えている。いや、一つだけ、たった一つだけ死なないでそれから逃れる方法があって、それは私の一切すべての生と性を他人に預けきってしまうことである。生きることも死ぬことも人任せ、食べることも眠ることも、風呂に入ることも入らないことも、出掛けることも明日のことも、自分に関する何もかもの一切すべてに、自分の意思と意志を持たないこと。自分の意思がなくなれば、不安も苦しみもなくなる。悲しみも寂しさもなくなる。欲求がなければ、失望もうまれない。喜びもないだろうが、苦悩もない。一切がなくなる。それを望んでいる。それを現代社会で具体的な動作と言葉に当てはめてみると、洗脳、入信、赤ちゃんプレイということになり、私はとてもこれを大きな声で人に望めない。
夜になると理性が飛んで、私は自分の一切から解放されたいという欲望に押しつぶされそうになる。死なないのであれば、せめて苦しみから解放されたい。苦しみから解放されないのであれば、こんなに苦しんでまで生きていたくない。だけど私が死ねば家族が傷つくので、少なくとも両親より先に死なないと決めた私はまだ死ねない、まだ死ねないのであれば、なんとか生きる喜びがほしい、生きる喜びがないのであれば、私は私の一切から生きながらにして解放されたい、しかしそれは社会的に死ぬことと何が違うのか、私の強すぎる欲望を具現化して、それで私の家族は傷つかないか、私の強すぎる欲望が現実になったとき、それで私以外の一体誰が喜ぶのかと思うと、とても実行する気になれない。だけれども、そうとなれば、私はこのままずっと苦しみの渦のままか、一切から解放されたいという欲深い欲望を抱えたまま、朝の光の健全さにすがって、それをまるで自分のもののように思いこんで、前向きな健全さを装って社会にとけ込み、日が暮れてから、自分のひどい嘘と矛盾にうんうん唸る、それが私のこの先の一生かと思うと、なんとも、気が重くなる。
そうしてここまで書くと、だいぶすっきりして、私は理性を取り戻す。なんということを望んでいるのかと、自分の直截かつ率直な欲望に驚き、戸惑い、恥ずかしさを覚え、次に恐れる。はっきり言って、打ちのめされる。私の頭は大丈夫なのか、私はどこかおかしいのではないだろうか、という思いに、打ちのめされる。
朝のうちは大丈夫で、理性を取り戻して前向きになれるのに、夜になるとどこからともなく紫色の渦をまいた不安がやってきて私を取り込む。私を苛む。そんなものに取り合わないで無視してさっさと寝てしまえば良いのだが、そうすれば翌朝そんなことはすっかり忘れて、また健全で前向きな気持ちでいられるのだが、こう毎晩のように不安がやってきて、朝はそれから解放されてと、朝と晩でまるで違う気分に支配されることにほとほと疲れてしまう。それでまた、私はおかしいのではないかと思いはじめてしまう。しかし「鏡ばかり見ているとノイローゼになる」。夜になると私はのぞかなくていい鏡をのぞきこんでしまうのだ。だけど、のぞかなくていい鏡なら、なぜそこにあるのか、とまた考えてしまう。考えると胸がつぶれる。だからなにも考えないようにする。
子供のころ繰り返しみた夢がある。人に話すとたいてい笑われるのだが、通っていた保育園がバルタン星人に襲撃され、大人も子供もみな白いビームのようなものを浴びてそこら中で煙が上がり火花が散り、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。小さかった私は、部屋の柱と柱の隙間の影に隠れてそれを見ている。みんなが次々とやられていくのを泣きながら震えながら怯えながら見ている。どうかこっちに気が付きませんように。あの黒くて蟹だか海老だかよく分からない怪物が、こっちに気が付きませんように。あの人達が早くどこかに行ってくれますように。私は自分の命が助かることばかり念じている。するとその声が聞こえたのか、それまでこちらに背を向けていた一人のバルタン星人が振り向き、柱の隙間にいる私に気付く。私は、もうこれで終わりだ、どうしようと思い、体が硬直して動かなくなる。バルタン星人に表情はないはずだが、なぜか自分よりも弱い獲物を見つけた人特有のあの満足の笑みを浮かべてゆっくりとこちらに近づいてくる。ゆっくりゆっくり近づいて、吐息が顔にかかるまで近づいて、もう終わりだ、と私が思うと目が覚める。
それ以外にも似たような夢を繰り返し見た。どれも共通するのは、目の前で惨事が繰り広げられ、私はそこの傍観者であること。惨事を引き起こした張本人が楽しげに破壊と殺戮を繰り返すが、私に気が付かないこと。私はその状況の中のたった一人の生き残りで、周りには誰も助けがいないこと。どうか、どうかどうかこの破壊者が私に気が付きませんようにと願うと、なぜか気付かれてしまうこと。そうして愉しみと悦びに充ちた目が近づいてきて、ああもう終わりだ、と思うこと。そうして私は恥も外聞もなく命乞いをし、破壊者に取り入って事無きを得ること。バルタン星人の夢で、私は殺される前に目が覚めるが、他の夢の中の私はみんな、命乞いをして破壊者の足許にひざまずき、その低い姿勢が認められて破壊者の寵愛を受けるという、文章にすると何とも陳腐で気恥ずかしいが、毎度毎度お決まりのストーリー展開であった。
このごろ私が思うのは、私は現実にそのようなストーリーを探しているふしがある、ということである。もっと直裁に言えば、私にはそのような状況におかれたいという強い欲望がある、ということを、このところ否定できなくなっている。
不安、恐れ、悲しみ、寂しさ、人間が生きていく上で回避不能のこの感情と出来事から、一切解放されたいという気持ちが、だんだん強くなってきている。そうして実際には、それから解放されるためには死ぬしかないと分かっているから、欲望が満たされない不満を抱えている。いや、一つだけ、たった一つだけ死なないでそれから逃れる方法があって、それは私の一切すべての生と性を他人に預けきってしまうことである。生きることも死ぬことも人任せ、食べることも眠ることも、風呂に入ることも入らないことも、出掛けることも明日のことも、自分に関する何もかもの一切すべてに、自分の意思と意志を持たないこと。自分の意思がなくなれば、不安も苦しみもなくなる。悲しみも寂しさもなくなる。欲求がなければ、失望もうまれない。喜びもないだろうが、苦悩もない。一切がなくなる。それを望んでいる。それを現代社会で具体的な動作と言葉に当てはめてみると、洗脳、入信、赤ちゃんプレイということになり、私はとてもこれを大きな声で人に望めない。
夜になると理性が飛んで、私は自分の一切から解放されたいという欲望に押しつぶされそうになる。死なないのであれば、せめて苦しみから解放されたい。苦しみから解放されないのであれば、こんなに苦しんでまで生きていたくない。だけど私が死ねば家族が傷つくので、少なくとも両親より先に死なないと決めた私はまだ死ねない、まだ死ねないのであれば、なんとか生きる喜びがほしい、生きる喜びがないのであれば、私は私の一切から生きながらにして解放されたい、しかしそれは社会的に死ぬことと何が違うのか、私の強すぎる欲望を具現化して、それで私の家族は傷つかないか、私の強すぎる欲望が現実になったとき、それで私以外の一体誰が喜ぶのかと思うと、とても実行する気になれない。だけれども、そうとなれば、私はこのままずっと苦しみの渦のままか、一切から解放されたいという欲深い欲望を抱えたまま、朝の光の健全さにすがって、それをまるで自分のもののように思いこんで、前向きな健全さを装って社会にとけ込み、日が暮れてから、自分のひどい嘘と矛盾にうんうん唸る、それが私のこの先の一生かと思うと、なんとも、気が重くなる。
そうしてここまで書くと、だいぶすっきりして、私は理性を取り戻す。なんということを望んでいるのかと、自分の直截かつ率直な欲望に驚き、戸惑い、恥ずかしさを覚え、次に恐れる。はっきり言って、打ちのめされる。私の頭は大丈夫なのか、私はどこかおかしいのではないだろうか、という思いに、打ちのめされる。
朝のうちは大丈夫で、理性を取り戻して前向きになれるのに、夜になるとどこからともなく紫色の渦をまいた不安がやってきて私を取り込む。私を苛む。そんなものに取り合わないで無視してさっさと寝てしまえば良いのだが、そうすれば翌朝そんなことはすっかり忘れて、また健全で前向きな気持ちでいられるのだが、こう毎晩のように不安がやってきて、朝はそれから解放されてと、朝と晩でまるで違う気分に支配されることにほとほと疲れてしまう。それでまた、私はおかしいのではないかと思いはじめてしまう。しかし「鏡ばかり見ているとノイローゼになる」。夜になると私はのぞかなくていい鏡をのぞきこんでしまうのだ。だけど、のぞかなくていい鏡なら、なぜそこにあるのか、とまた考えてしまう。考えると胸がつぶれる。だからなにも考えないようにする。
2013年3月25日月曜日
Hello, this is inu speaking.
インドに行った。楽しかった。詳細は書かない。
インドに行った。最後、へべれけに調子をくずした。頭痛発熱嘔気しびれ過呼吸下痢筋肉痛がいっぺんに来てインドの病院へ行き、空港では車椅子をだされ初の優先搭乗で飛行機に乗った。しこたま、というほどでもないが、吐いた。私は吐く時に獣が吠えるような音がする。胃の内容物が食道を這い上がるときに、ぴったりと閉じられているその場所を押し拡げていくときに出る音が、獣の吠えるような音なのだ。あれが、ものすごく、苦しい。あれさえなければ、もっと楽に吐けるのに。恐らく人より具合が悪くなることが多いので、そういうとき、寝床で、コンクリート打ちっぱなしの天井を見ながら考える。吐くのは、病気だから致し方ない。そうであれば、もっと楽に吐けないものかと。
人の吐く所を見たことがあるが、みんな私のような獣のような音はあげていなかった。あれは何が違うのか。よく分からない。
インドで考えたことは、「フラッシュバックメモリーズ」を早く見なくては、ということだった。なぜか分からないが、しかも知り合いでもなくただのファンであるのに、松江さんのことを思い出した。3月に、私が行かれなかった、しかもギドクが来た、別府での韓国映画祭のことなどもうっすらと思い出しては忘れた。とてもハードスケジュールで、ほとんど毎日寝不足でふらふらしていたので、いろいろな思いが浮かんでは消えた、という手あかのついた表現でお茶を濁してみる。
帰国後、インドで知り合いになった人とチャットをしてみている。その人はとても有能なので5カ国語くらい喋ることができる。いま私を通じて日本語を勉強中で、私はその人を通じて英語を教えてもらっている。しかし、私が何かを書くたびに、say it...と訂正が入るので、なかなか手厳しい。だけどその人はとても真っすぐな、日本ではお目にかかれそうもないほど真っすぐな人なので、私はその人をとても尊敬している。だって、いまどき正しさに重きを置いている日本人がどこにいるのだろうか。私が知らぬだけで当然ある一定数はいるのであろうが、しかし正しいこと、正しくあること、それを自分に課していること、そうして堂々と淡々としていること、そんな当たり前かも知れない態度が、典型的日和見主義な日本人であるところの私には、どうしようもなく眩しく見えた。あなたはすごいよ、何でもできる、と私が言うと、その人は、そうだ、私は何でもできる、と言う。私は、この人のことが、すごく好きだなあと思う。だけど、アウトカーストであり、現実的にそう頻繁にインドに行かれない私がその人に強い憧れと、尊敬心と、淡い恋心を抱いたところで、それ以上、現実的にも物理的にも発展しようがない。それが私をこの上なく安心させ、私はまた平気で、あなたって本当にすごい、と繰り返し書くのである。
一時、性的不能の男との恋愛を夢見たことがある。今から考えてみると実に愚かであったが、その当時の私は、男性が愛情と性欲とを無自覚なままに混同し屹立させ擦りつけてくることが許せなかった。私はとても若くて潔癖だったのだと思う。だから、自分の周りの、自分の性欲に関して鈍すぎるおめでたい男たちと次から次へと関係を結んだ。私のことを好きと言ってくる男たちに対して、あなたと同等の存在は複数いるのだと告げた。男はそれでも引き続き私と寝る。それで真に鈍感で愚かであるところの私はようやく、男たちが「好きだ」という言葉とともに私に擦りつけてきたものが何であったのかを自分に知らしめることができた。そのときになってようやく、私は自分で男たちの言うことを納得することができた。この人たちは、やりたい、と素直に言えないのだ、と分かった。やりたい、と素直に示すことが、相手を不愉快にさせることであり、同時に自分の価値を低くさせることであるからして、やりたい、とは間違っても口にしない。あなたが好きです、と相手に好意がある風を装って、また自分でも無自覚のうちにそう思い込むことで、自分の性欲を相手にも、自分にも、肯定させるのだ。それが私が19歳の時に得た結論だった。私は死に損ない、そのあと恋人に出会い、そうして彼を手ひどく裏切り、また一人になった。
私がくだんのインド人とチャットをしながら考えたことは、彼が私のこれまでの行いを知ったら何と思うだろうか、ということだった。つくづく、私は人に言えないことをしてきてしまったと、これまでの行いを後悔した。インドで倒れたとき、私は病院に運ばれ、点滴を受けた。その際、点滴の針を刺すから動かないようにと誰かが押さえていた私の右腕には、数えきれないほどの切り傷がある。それから、帰国後、病院に行って同じように採血を受け、点滴を受けた。そのとき、私は微妙な顔をして、おもむろに左腕を差し出した。看護士と思しき人に、「こっちの腕にしてください」と言った。看護士は当然のように笑顔を崩さなかった。真っ白い蛍光灯の規則的に並ぶ天井を眺めながら、私は、自分の愚かしさを改めて思った。
2012年12月25日火曜日
12月24日 「苦役列車」に乗る
高田馬場の早稲田松竹にて「苦役列車」見る。クリスマスイブに名画座で一人で「苦役列車」なんて、きっと館内はガラガラで、同じく暇を持て余した映画好きの同士とともに静かにひっそりと個人的に映画を愉しめて、なかなか渋い良い選択じゃないかと一人で悦に入っていたが、チケット売り場に人が並んでいるのを見て面食らう。「苦役列車」「ヘルタースケルター」の二本立ては立ち見も出るほどに混んでいた。早稲田松竹は名画座の名に似つかわしくなく小綺麗で立派な映画館だった。
どうせつまらないんだろうと思っていた「苦役列車」は、これが案外、とても良かった。もちろん私が原作者の西村賢太好きであり、主演俳優の森山未來好きであることで幾らか評価に下駄を履かせてしまっている感はあるが、期待していなかった分だけより面白かった。何よりも、直前のスタッフ名簿(というのか)で脚本がいまおかしんじさんであると知ったこと、顔は見るが名前が分からなかったAV男優さんが出ていたこと、家に帰ってから、その人の名前が花岡じったと言い、しかも在日朝鮮人二世であることが分かり、興味のあったことにさらに近づくことができた。単純に嬉しかった。鑑賞中、それぞれ一人で見に来ているらしい私の隣りの男女の鑑賞態度も良く、苛々させられなかったのもまた映画を見るのにとても助かった。
この日はきっとすごく混雑しているであろうと、時間的な余裕がなかったこともあり我が心の聖地・新宿は素通りして地元の図書館のある駅で降りる。図書館の前にケーキ屋に寄りクリスマスケーキを買い求めるが、期待したいつものケーキは既に売り切れてしまったといい、この日のために用意したと思われる少し大きめのクリスマス仕様のケーキが三種類残っているばかり。今日、家にいる家族の人数に少し足りなかったのでとりあえず三つ求め、場所を移動して別なケーキ屋に行ってまた四つほど求め、手にずっしりと重い二箱のケーキを携えて図書館へ行き、予約していた本の受け取りと、年末年始の休みのために貸し出し期間が延びるであろうことを当て込んでいつもより多めの冊数を借りて帰る。写真は撮り忘れたので一個もない。
帰路、むかし好きだった人のことをちくちくと思い出し、その人の動向をネットで追えてしまう現状を呪う。もう二度と会えない、もうどこにいるかも分からなければ潔く諦めることもできるのかも知れないが、名前や所属などで検索すれば今どこで何をしているかすぐと分かってしまう、またその相手が意図せずとも自らの現状と交友関係とを全世界に向けて発信しており、私のように執念深いネットストーカーはただその情報を拾い集めて相手の現在を割りに現実のそれに近い形で推測することができてしまう、その現状がありがたくもあり疎ましくもある。見えなければ、知らなければ思い出すこともないのに、見えてしまう、知ることが簡単にできてしまうので、気になってしまって仕方がない。だけれども深追いするのは危険だし、後戻りするのも嫌だし、何より根本的にこの問題は私の「寂しい」という素直で手に負えない感情に由来する、いつもの自己愛がねじれこじれ自分で自分の首を絞めている状態がもたらしているもので、それを解決しようと安易に見知らぬ他人の体温を求めるほど私は若くも純情でもない。
家に帰ると丸焼きの鶏を父が買い求めていてびっくりし興奮する。さらに大きい机のうえに置いてあった「映画が愛したソウルのロケ地」という本を見つけ、これは何かと父に問うと、父の古い友人で先に私も箱根で挨拶をしたTさんの奥様が犬の散歩がてら届けてくれたのだと言う。Tさんは韓国で大学の先生をしている人で、私が自分の仕事のことも絡めながら、韓国映画が好きでいつか韓国に行きたいと思っている旨のことを箱根で話したとき、「君にぴったりの本があるからあげる」と言ってくれたのだった。これはそのときの口約束を忠実に果たしてくれて、今日、私の手許に届けられた。びっくりした。嬉しかった。今日一日の行動を振り返って手帳に書き付けていると、今日という日がそういえばクリスマスイブであることに思い至って、ああこれはクリスマスプレゼントなんだと思うとより一層うれしさが増した。お礼の連絡をしなければと思いながら先にネットの日記に書き付けてしまっている辺り私の無精な所が出てしまったが、しかしお礼をしなくては。
東大門で工事が進められているザハの「デザイン・プラザ」は来年に完成すると聞いている。それも見たいし、何よりギドクの事務所まで行って韓国語で「私は日本のあなたのファンです。日本にはあなたのファンがたくさんいます」と言いたい。もちろんそれは非現実的な絵空事の理想の話だが、それくらいの気持ちが「アリラン」を見てから芽生えた。無理解に傷つき怒るただの繊細な人間かと思いきや、やたらと自己愛が強く自己評価の高い、自分が大好きで自分を受け入れてもらいたくて仕方がない、だけれども現状その欲求が通っていないからとてつもない不満足を覚えている、とても傷つき易い、しかも食べ物に例えるならばらっきょうみたいな顔貌をしている五十男が、私はやっぱり好きで好きでたまらない。
現実世界で韓国の話をすると、やはり、どこか、白眼視されるような気がしているが、やっぱり建築にしろ映画にしろ面白いものは面白いのだ。そうして私は在日朝鮮人と呼ばれる人達に特別の興味がある。理由はよく分からないが、とにかく興味がある。だから今日、あの強面の体格のいい男優さんが花岡じったさんというお名前で、しかも在日であるということが分かって、とても気分が良い。
気分が良いついでに来年のアピアの友川かずきライブも予約してしまった。映画を見たり旅行に行ったりするとお金がどんどん消えていくのだが、でもそうしなければ自分の内側に濁って動かない澱の中から聞こえる後悔と絶望のような声に抱きすくめられて本当に可笑しくなってしまう気がして、とにかく興味のある気持ちのいい方を目指して走っていきたい気分でいる。
どうせつまらないんだろうと思っていた「苦役列車」は、これが案外、とても良かった。もちろん私が原作者の西村賢太好きであり、主演俳優の森山未來好きであることで幾らか評価に下駄を履かせてしまっている感はあるが、期待していなかった分だけより面白かった。何よりも、直前のスタッフ名簿(というのか)で脚本がいまおかしんじさんであると知ったこと、顔は見るが名前が分からなかったAV男優さんが出ていたこと、家に帰ってから、その人の名前が花岡じったと言い、しかも在日朝鮮人二世であることが分かり、興味のあったことにさらに近づくことができた。単純に嬉しかった。鑑賞中、それぞれ一人で見に来ているらしい私の隣りの男女の鑑賞態度も良く、苛々させられなかったのもまた映画を見るのにとても助かった。
この日はきっとすごく混雑しているであろうと、時間的な余裕がなかったこともあり我が心の聖地・新宿は素通りして地元の図書館のある駅で降りる。図書館の前にケーキ屋に寄りクリスマスケーキを買い求めるが、期待したいつものケーキは既に売り切れてしまったといい、この日のために用意したと思われる少し大きめのクリスマス仕様のケーキが三種類残っているばかり。今日、家にいる家族の人数に少し足りなかったのでとりあえず三つ求め、場所を移動して別なケーキ屋に行ってまた四つほど求め、手にずっしりと重い二箱のケーキを携えて図書館へ行き、予約していた本の受け取りと、年末年始の休みのために貸し出し期間が延びるであろうことを当て込んでいつもより多めの冊数を借りて帰る。写真は撮り忘れたので一個もない。
帰路、むかし好きだった人のことをちくちくと思い出し、その人の動向をネットで追えてしまう現状を呪う。もう二度と会えない、もうどこにいるかも分からなければ潔く諦めることもできるのかも知れないが、名前や所属などで検索すれば今どこで何をしているかすぐと分かってしまう、またその相手が意図せずとも自らの現状と交友関係とを全世界に向けて発信しており、私のように執念深いネットストーカーはただその情報を拾い集めて相手の現在を割りに現実のそれに近い形で推測することができてしまう、その現状がありがたくもあり疎ましくもある。見えなければ、知らなければ思い出すこともないのに、見えてしまう、知ることが簡単にできてしまうので、気になってしまって仕方がない。だけれども深追いするのは危険だし、後戻りするのも嫌だし、何より根本的にこの問題は私の「寂しい」という素直で手に負えない感情に由来する、いつもの自己愛がねじれこじれ自分で自分の首を絞めている状態がもたらしているもので、それを解決しようと安易に見知らぬ他人の体温を求めるほど私は若くも純情でもない。
家に帰ると丸焼きの鶏を父が買い求めていてびっくりし興奮する。さらに大きい机のうえに置いてあった「映画が愛したソウルのロケ地」という本を見つけ、これは何かと父に問うと、父の古い友人で先に私も箱根で挨拶をしたTさんの奥様が犬の散歩がてら届けてくれたのだと言う。Tさんは韓国で大学の先生をしている人で、私が自分の仕事のことも絡めながら、韓国映画が好きでいつか韓国に行きたいと思っている旨のことを箱根で話したとき、「君にぴったりの本があるからあげる」と言ってくれたのだった。これはそのときの口約束を忠実に果たしてくれて、今日、私の手許に届けられた。びっくりした。嬉しかった。今日一日の行動を振り返って手帳に書き付けていると、今日という日がそういえばクリスマスイブであることに思い至って、ああこれはクリスマスプレゼントなんだと思うとより一層うれしさが増した。お礼の連絡をしなければと思いながら先にネットの日記に書き付けてしまっている辺り私の無精な所が出てしまったが、しかしお礼をしなくては。
東大門で工事が進められているザハの「デザイン・プラザ」は来年に完成すると聞いている。それも見たいし、何よりギドクの事務所まで行って韓国語で「私は日本のあなたのファンです。日本にはあなたのファンがたくさんいます」と言いたい。もちろんそれは非現実的な絵空事の理想の話だが、それくらいの気持ちが「アリラン」を見てから芽生えた。無理解に傷つき怒るただの繊細な人間かと思いきや、やたらと自己愛が強く自己評価の高い、自分が大好きで自分を受け入れてもらいたくて仕方がない、だけれども現状その欲求が通っていないからとてつもない不満足を覚えている、とても傷つき易い、しかも食べ物に例えるならばらっきょうみたいな顔貌をしている五十男が、私はやっぱり好きで好きでたまらない。
現実世界で韓国の話をすると、やはり、どこか、白眼視されるような気がしているが、やっぱり建築にしろ映画にしろ面白いものは面白いのだ。そうして私は在日朝鮮人と呼ばれる人達に特別の興味がある。理由はよく分からないが、とにかく興味がある。だから今日、あの強面の体格のいい男優さんが花岡じったさんというお名前で、しかも在日であるということが分かって、とても気分が良い。
気分が良いついでに来年のアピアの友川かずきライブも予約してしまった。映画を見たり旅行に行ったりするとお金がどんどん消えていくのだが、でもそうしなければ自分の内側に濁って動かない澱の中から聞こえる後悔と絶望のような声に抱きすくめられて本当に可笑しくなってしまう気がして、とにかく興味のある気持ちのいい方を目指して走っていきたい気分でいる。
2012年12月24日月曜日
私は失語症になった
人と、話をする時、相手の望むように、反応している。それが普通だし、べつに何とも思わない。そういう人はたくさんいるのだろうし、多かれ少なかれ、きっとみんなそうなのだろうし、だから何とも思わない。
人の顔を見るのが辛い時がある。それは、自分が相手の望むような顔を作れないから、相手が、私を見て、その目に心配の色を浮かべるのが分かるから、相手の心遣いや心配が、鬱陶しくしか思えないから、人と一緒にいるのが、辛い時がある。
長らく日記から遠ざかっていたのは、自分が愚かであるとよく分かったことと、自分の愚かさをひけらかして周囲に迎合している愚かな人間が嫌いだと思ったことと、このままでは自分がそいつらと同じになってしまうという危惧を抱いたからで、ではどうすれば良いか考えると、自分の撮った写真を載せて自分の頭の中を見せようと思った。私は失語症になった。
私は失語症になった。その代わり、誰もいない所で一人で喋るようになった。喋る中身は、こうあってほしい理想の中の自分が、こうあってほしい理想の中の相手と理想の会話を交わしているのだった。するとたまらない幸福感を覚える、というのは大げさで、まあまあの満足度を覚える。鏡の中の自分に向かって笑みを泛かべ、偽物の感情をふりまいてみる。自分が頭のなかの理想を一人きりでみじめに再現していることに自覚があるので、自分を狂人とは思わない。私は少しもおかしくなんかないし、きっとそう思って過ごしている頭の悪い人間はごまんといるのだろうと思うと、私はまた自分がいっそうつまらない人間になってしまった気がして言葉を発するのが嫌になってしまう。
百万回も言う。私は相手の気持ちが分かる。百万回も言う。私はあなたの気持ちが分かる。百万回も言う。私はあなたに同化できる。私はあなたの望みを体現することができる。だけど私の才能はそれだけだったのだと、ようやく気付いた。才能と呼んでいいのかどうか分からない、もちろん私と同程度の能力のある人間もきっと私の知らないだけで沢山いるのだろうが、だけど私の狭い狭い世界の中にはほとんどいないから、敢えて大言壮語してしまう、才能と言い切ってしまう。私はあなたの心が分かる。だから人と一緒にいるのが苦痛だ。ある意味で、人に対して、機械的作業、機械的対応になってしまう。相手の望むままに作動するソフトマシーンと化してしまう。そうしてそれを相手に気取られないように取り繕う程度の優しさを持っている。気遣いなんて少しも持ち合わせていない愚鈍な人間であると一生懸命に示そうとしてしまう。つまり装った鈍感さを私の本性であると他人に思い込ませようとしてしまう。そうしてそれはある程度、成功する。ほとんどの人は私を何も考えない鈍感な人間だと思ってくれる。馬鹿で阿呆でおちゃらけた鈍いだけの人間だと思ってくれる。私が心の中でそいつらを何と思っているか私の目を見て探らないでいてくれる。私の目の色が揺れないと信じ込んでくれるお前らこそ鈍感さの塊以外の何であるか、と、私が心密かに毒づいていることなど考えもしないでいてくれる。そういう鈍感さを私は心底から尊敬し大切にしようと思う。失語症なのによく喋る。
私は、役割を与えられれば頑張ってそれなりにこなしてしまう。だけど何の役割もない私は、鏡と向き合って一人で自分の表情を確認しながら、理想と夢物語の嘘話を現実に引きずり出してきて一人で喜んでいる、とても頭の弱い人間である。
答えの出ないことは考えない。ある時までそれは思考停止で、私はそれを忌み嫌っていた。答えの出ないことは考えない。そう自分にいい聞かせながら、だけどそんなんじゃ駄目だと思っていた。ある時を過ぎた私は、ほとんど完璧な諦めを手に入れたように思う。「答えの出ないことは考えない」「考えるだけ時間の無駄だ」「時間は有限である」「貧乏人も金持ちも天才も気違いも怠け者にも勤勉なる者にも一日は二十四時間しかない」「だから何も考えない」「死がいつか必ず私を止めてくれる」誰のうえにも平等に流れる時間と、誰の身にも必ず降り注ぐ死が、私の妄想と空想で爆発しそうな頭を優しく撫でて冷やしてくれる。死がいつか必ず私を止めてくれる。だからなにも考えない。なにも考えないで済む。
私は井の中の蛙です
2012年12月2日日曜日
12月2日 大森のからっぽ
パク・チャヌク特集を見るため、初めてキネカ大森に行く。もう幾度か見た「復讐者に憐れみを」をもう一度みる。最初に見たほどの衝撃はなく、思っていたほどの思い入れもなくなっていた。緑色の頭の優男はとてもかわいいが、今回は残虐描写ばかりが目についてしまった。中身を知っている映画だと、次にどんなシーンが出てくるか分かるので、どうしても頭の中にある記憶をなぞらえるような見方になる。それは自分の記憶と答え合わせをしているようで、のめり込むというより、次は何だっけ、と先んじて思い出すことに神経を遣ってしまう。つまらない映画に2時間を費やすのはどうしようもなく苦痛だが、知っている映画の答え合わせに時間を遣うほど、私の時間は無限にないと思ってしまった。韓国映画を立て続けに2本みる元気もなく、その一本だけ見て映画館を出、大森という街を散策してみる。
昼餉が食べたくて入ったベルポート大森の天井に、度肝をぬかれる。空腹と残虐描写でくたびれていた心が、少し弾んで写真を撮ってみる。
昼餉が食べたくて入ったベルポート大森の天井に、度肝をぬかれる。空腹と残虐描写でくたびれていた心が、少し弾んで写真を撮ってみる。
狙いをつけていたのはインドカレー屋かセルフうどん屋なのだが、客の誰もいないことにたじろいでしまい、インドカレー屋を諦めてセルフうどん屋に入る。釜玉とかぶっかけとかいう名のうどんの内容が、いつもよく分からないが、名前に惹かれて、また自分で作ることもできないので、しばしば頼んでしまう。そうして揚げ玉未満の天かすと少し乾いた長ねぎ、生姜とそこに用意されていたトッピングを全部まぶしてみて、これで良いのかな、といつも思う。釜玉や温玉に代表されるうどんに私が戸惑いを覚えるのは、そこに何がのるものか判然としないからだ。それでも食べられれば良いだろうと大雑把に肯定し、食べ始める。くずれた玉子と天かすと生姜が絡んだ全体にきつね色の有耶無耶を口に運び、咀嚼して飲み込む。うどんは、もしかしてあんまり噛まないのかなと疑問を覚えながら、ずるずる食べる。そばよりうどんが好きだ。
腹が張ったので散歩に出る。大森から海が見えるはずだ。地図を確認して京急線は大森海岸駅の方へ歩く。風が冷たい。道路が広い。そして平たい。しかも真っすぐ伸びている。街の中にほとんど起伏が見られない。大通りを一本逸れた細い道でも、大通りに対して道が垂直に、ずっとまっすぐ向こうまで続いていて、その細い平べったい道に対して唐突に、垂直に背の高いビルが建っている。不思議な感じを覚える。私の育った街は、細いくねる見通しの悪い道ばかりなので、その通りの向こうまで見渡せる景観に違和感を覚える。海が近いのだと納得する。山がないから、平べったい敷地に広い面積の建物が建て易いのだろうと推測する。第一京浜の海側に渡ると、かすかに磯の香りがした。
初めてみた平和島競艇場
キネカ大森 来週から3月までキム・ギドク作品を上映するようだ。
2012年11月26日月曜日
11月25日 暮れ行く連休の終わり
新宿に行って諸々の用事を済ます。新宿は広くて何でもあって便利だ。「広くて何でもあって便利」ということが実現されるためには、広い売り場面積を確保する必要がある。ということは、一つの店から別な店へ移動する距離は、売り場面積に比例して大きくなるということだ、とサザンテラスを歩きながら漠然と思う。そんなことは、当たり前だ。当たり前だけれども、今日気が付いた。
電車のなかで、どういう順番で移動するか予定を立てた。まず南口、それから新南口、それから西武新宿に行くか、もしくは東口に行って、でも最後は南口に戻ってきて、そのとき、どの道を通るのが近いのか。頭の中に新宿の大まかな地図を描こうと思ったが、漠然として曖昧模糊で、判然としない。新宿の地理がよく分からない。結局、一時間強ですべての用事を済ますことを諦め、どうしても今日終わらせなければいけないことの順番に用事に番号を振り、そのメモを見ながら行動した。頭がどんどん馬鹿になっているのか、考える能力が落ちているのか、分からないが、あらかじめ予定を立てないと、街中で立ち止まってしまうようになった。そうなると、うーん、どうしよう、と考えるふりはするのだが、まったく答えが出せなくなる。判断力と決断力が極端に落ちて、そのうちに目眩とのどの渇きを覚えて、といってお店に入って店員に注文をするだけの体力もなく、どうしよう、休むべきか、帰るべきか、それとも次の用事を済ませるべきか、どうしよう、ということから先に考えが進まなくなって、それに疲れて死にたくなってきてしまうので、もう行動に順序をつけておいて、その通りに実行するようにしている。すると、あんまりくたびれない内に帰ることができる。
閉館間際の図書館に行き予約していた本と、読みかけのまま貸し出し期限がきて返してしまった本を借りる。途中までしか読めなかった萬月の「裂」を、もう一度借りる。久しぶりに、萬月の本の中で、心から良いなと思ったから、もう一度読みたかった。図書館で借りる本は、いつか返さなければいけないという期限つきの緊張感があるので、それは自分で手に入れた本と違うたのしみがある。

出掛けたら写真を撮ろうと決めた。どこに行って何をしたか、生活の記録を写そうと思った。思ったそばから、さっそく忘れて手ぶらで帰りそうになって、慌てて暮れていく日曜日の夕方を撮った。
電車のなかで、どういう順番で移動するか予定を立てた。まず南口、それから新南口、それから西武新宿に行くか、もしくは東口に行って、でも最後は南口に戻ってきて、そのとき、どの道を通るのが近いのか。頭の中に新宿の大まかな地図を描こうと思ったが、漠然として曖昧模糊で、判然としない。新宿の地理がよく分からない。結局、一時間強ですべての用事を済ますことを諦め、どうしても今日終わらせなければいけないことの順番に用事に番号を振り、そのメモを見ながら行動した。頭がどんどん馬鹿になっているのか、考える能力が落ちているのか、分からないが、あらかじめ予定を立てないと、街中で立ち止まってしまうようになった。そうなると、うーん、どうしよう、と考えるふりはするのだが、まったく答えが出せなくなる。判断力と決断力が極端に落ちて、そのうちに目眩とのどの渇きを覚えて、といってお店に入って店員に注文をするだけの体力もなく、どうしよう、休むべきか、帰るべきか、それとも次の用事を済ませるべきか、どうしよう、ということから先に考えが進まなくなって、それに疲れて死にたくなってきてしまうので、もう行動に順序をつけておいて、その通りに実行するようにしている。すると、あんまりくたびれない内に帰ることができる。
閉館間際の図書館に行き予約していた本と、読みかけのまま貸し出し期限がきて返してしまった本を借りる。途中までしか読めなかった萬月の「裂」を、もう一度借りる。久しぶりに、萬月の本の中で、心から良いなと思ったから、もう一度読みたかった。図書館で借りる本は、いつか返さなければいけないという期限つきの緊張感があるので、それは自分で手に入れた本と違うたのしみがある。
出掛けたら写真を撮ろうと決めた。どこに行って何をしたか、生活の記録を写そうと思った。思ったそばから、さっそく忘れて手ぶらで帰りそうになって、慌てて暮れていく日曜日の夕方を撮った。
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