2012年12月24日月曜日

私は失語症になった


 人と、話をする時、相手の望むように、反応している。それが普通だし、べつに何とも思わない。そういう人はたくさんいるのだろうし、多かれ少なかれ、きっとみんなそうなのだろうし、だから何とも思わない。

 人の顔を見るのが辛い時がある。それは、自分が相手の望むような顔を作れないから、相手が、私を見て、その目に心配の色を浮かべるのが分かるから、相手の心遣いや心配が、鬱陶しくしか思えないから、人と一緒にいるのが、辛い時がある。

 長らく日記から遠ざかっていたのは、自分が愚かであるとよく分かったことと、自分の愚かさをひけらかして周囲に迎合している愚かな人間が嫌いだと思ったことと、このままでは自分がそいつらと同じになってしまうという危惧を抱いたからで、ではどうすれば良いか考えると、自分の撮った写真を載せて自分の頭の中を見せようと思った。私は失語症になった。


 私は失語症になった。その代わり、誰もいない所で一人で喋るようになった。喋る中身は、こうあってほしい理想の中の自分が、こうあってほしい理想の中の相手と理想の会話を交わしているのだった。するとたまらない幸福感を覚える、というのは大げさで、まあまあの満足度を覚える。鏡の中の自分に向かって笑みを泛かべ、偽物の感情をふりまいてみる。自分が頭のなかの理想を一人きりでみじめに再現していることに自覚があるので、自分を狂人とは思わない。私は少しもおかしくなんかないし、きっとそう思って過ごしている頭の悪い人間はごまんといるのだろうと思うと、私はまた自分がいっそうつまらない人間になってしまった気がして言葉を発するのが嫌になってしまう。


 百万回も言う。私は相手の気持ちが分かる。百万回も言う。私はあなたの気持ちが分かる。百万回も言う。私はあなたに同化できる。私はあなたの望みを体現することができる。だけど私の才能はそれだけだったのだと、ようやく気付いた。才能と呼んでいいのかどうか分からない、もちろん私と同程度の能力のある人間もきっと私の知らないだけで沢山いるのだろうが、だけど私の狭い狭い世界の中にはほとんどいないから、敢えて大言壮語してしまう、才能と言い切ってしまう。私はあなたの心が分かる。だから人と一緒にいるのが苦痛だ。ある意味で、人に対して、機械的作業、機械的対応になってしまう。相手の望むままに作動するソフトマシーンと化してしまう。そうしてそれを相手に気取られないように取り繕う程度の優しさを持っている。気遣いなんて少しも持ち合わせていない愚鈍な人間であると一生懸命に示そうとしてしまう。つまり装った鈍感さを私の本性であると他人に思い込ませようとしてしまう。そうしてそれはある程度、成功する。ほとんどの人は私を何も考えない鈍感な人間だと思ってくれる。馬鹿で阿呆でおちゃらけた鈍いだけの人間だと思ってくれる。私が心の中でそいつらを何と思っているか私の目を見て探らないでいてくれる。私の目の色が揺れないと信じ込んでくれるお前らこそ鈍感さの塊以外の何であるか、と、私が心密かに毒づいていることなど考えもしないでいてくれる。そういう鈍感さを私は心底から尊敬し大切にしようと思う。失語症なのによく喋る。

 私は、役割を与えられれば頑張ってそれなりにこなしてしまう。だけど何の役割もない私は、鏡と向き合って一人で自分の表情を確認しながら、理想と夢物語の嘘話を現実に引きずり出してきて一人で喜んでいる、とても頭の弱い人間である。

 答えの出ないことは考えない。ある時までそれは思考停止で、私はそれを忌み嫌っていた。答えの出ないことは考えない。そう自分にいい聞かせながら、だけどそんなんじゃ駄目だと思っていた。ある時を過ぎた私は、ほとんど完璧な諦めを手に入れたように思う。「答えの出ないことは考えない」「考えるだけ時間の無駄だ」「時間は有限である」「貧乏人も金持ちも天才も気違いも怠け者にも勤勉なる者にも一日は二十四時間しかない」「だから何も考えない」「死がいつか必ず私を止めてくれる」誰のうえにも平等に流れる時間と、誰の身にも必ず降り注ぐ死が、私の妄想と空想で爆発しそうな頭を優しく撫でて冷やしてくれる。死がいつか必ず私を止めてくれる。だからなにも考えない。なにも考えないで済む。


 私は井の中の蛙です

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