夜になると理性がどこかへ行ってしまう。夜になると前向きで建設的な私が消え、身勝手で自分だけが可愛くて可哀想な、欲望に享楽的な私が台頭する。欲望に享楽的な私は思う。死にたい。誰か私の目と耳と口と鼻を塞いでください。私に何も入らないように、私から何も出ないように、私に何も気持ちの悪いものが触れないように、私がそれに、一切気が付かないように、私をなにも分からなくしてください。私が苦しまないように、私が恐れないように、私が不安を感じないように、何も分からなくなれば、何も怖がらなくて済むから、何も分からないように、私が何も分からないように、誰か私の目と耳と口と鼻を優しく塞いで、それから首もそっと絞めて下さい。
子供のころ繰り返しみた夢がある。人に話すとたいてい笑われるのだが、通っていた保育園がバルタン星人に襲撃され、大人も子供もみな白いビームのようなものを浴びてそこら中で煙が上がり火花が散り、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。小さかった私は、部屋の柱と柱の隙間の影に隠れてそれを見ている。みんなが次々とやられていくのを泣きながら震えながら怯えながら見ている。どうかこっちに気が付きませんように。あの黒くて蟹だか海老だかよく分からない怪物が、こっちに気が付きませんように。あの人達が早くどこかに行ってくれますように。私は自分の命が助かることばかり念じている。するとその声が聞こえたのか、それまでこちらに背を向けていた一人のバルタン星人が振り向き、柱の隙間にいる私に気付く。私は、もうこれで終わりだ、どうしようと思い、体が硬直して動かなくなる。バルタン星人に表情はないはずだが、なぜか自分よりも弱い獲物を見つけた人特有のあの満足の笑みを浮かべてゆっくりとこちらに近づいてくる。ゆっくりゆっくり近づいて、吐息が顔にかかるまで近づいて、もう終わりだ、と私が思うと目が覚める。
それ以外にも似たような夢を繰り返し見た。どれも共通するのは、目の前で惨事が繰り広げられ、私はそこの傍観者であること。惨事を引き起こした張本人が楽しげに破壊と殺戮を繰り返すが、私に気が付かないこと。私はその状況の中のたった一人の生き残りで、周りには誰も助けがいないこと。どうか、どうかどうかこの破壊者が私に気が付きませんようにと願うと、なぜか気付かれてしまうこと。そうして愉しみと悦びに充ちた目が近づいてきて、ああもう終わりだ、と思うこと。そうして私は恥も外聞もなく命乞いをし、破壊者に取り入って事無きを得ること。バルタン星人の夢で、私は殺される前に目が覚めるが、他の夢の中の私はみんな、命乞いをして破壊者の足許にひざまずき、その低い姿勢が認められて破壊者の寵愛を受けるという、文章にすると何とも陳腐で気恥ずかしいが、毎度毎度お決まりのストーリー展開であった。
このごろ私が思うのは、私は現実にそのようなストーリーを探しているふしがある、ということである。もっと直裁に言えば、私にはそのような状況におかれたいという強い欲望がある、ということを、このところ否定できなくなっている。
不安、恐れ、悲しみ、寂しさ、人間が生きていく上で回避不能のこの感情と出来事から、一切解放されたいという気持ちが、だんだん強くなってきている。そうして実際には、それから解放されるためには死ぬしかないと分かっているから、欲望が満たされない不満を抱えている。いや、一つだけ、たった一つだけ死なないでそれから逃れる方法があって、それは私の一切すべての生と性を他人に預けきってしまうことである。生きることも死ぬことも人任せ、食べることも眠ることも、風呂に入ることも入らないことも、出掛けることも明日のことも、自分に関する何もかもの一切すべてに、自分の意思と意志を持たないこと。自分の意思がなくなれば、不安も苦しみもなくなる。悲しみも寂しさもなくなる。欲求がなければ、失望もうまれない。喜びもないだろうが、苦悩もない。一切がなくなる。それを望んでいる。それを現代社会で具体的な動作と言葉に当てはめてみると、洗脳、入信、赤ちゃんプレイということになり、私はとてもこれを大きな声で人に望めない。
夜になると理性が飛んで、私は自分の一切から解放されたいという欲望に押しつぶされそうになる。死なないのであれば、せめて苦しみから解放されたい。苦しみから解放されないのであれば、こんなに苦しんでまで生きていたくない。だけど私が死ねば家族が傷つくので、少なくとも両親より先に死なないと決めた私はまだ死ねない、まだ死ねないのであれば、なんとか生きる喜びがほしい、生きる喜びがないのであれば、私は私の一切から生きながらにして解放されたい、しかしそれは社会的に死ぬことと何が違うのか、私の強すぎる欲望を具現化して、それで私の家族は傷つかないか、私の強すぎる欲望が現実になったとき、それで私以外の一体誰が喜ぶのかと思うと、とても実行する気になれない。だけれども、そうとなれば、私はこのままずっと苦しみの渦のままか、一切から解放されたいという欲深い欲望を抱えたまま、朝の光の健全さにすがって、それをまるで自分のもののように思いこんで、前向きな健全さを装って社会にとけ込み、日が暮れてから、自分のひどい嘘と矛盾にうんうん唸る、それが私のこの先の一生かと思うと、なんとも、気が重くなる。
そうしてここまで書くと、だいぶすっきりして、私は理性を取り戻す。なんということを望んでいるのかと、自分の直截かつ率直な欲望に驚き、戸惑い、恥ずかしさを覚え、次に恐れる。はっきり言って、打ちのめされる。私の頭は大丈夫なのか、私はどこかおかしいのではないだろうか、という思いに、打ちのめされる。
朝のうちは大丈夫で、理性を取り戻して前向きになれるのに、夜になるとどこからともなく紫色の渦をまいた不安がやってきて私を取り込む。私を苛む。そんなものに取り合わないで無視してさっさと寝てしまえば良いのだが、そうすれば翌朝そんなことはすっかり忘れて、また健全で前向きな気持ちでいられるのだが、こう毎晩のように不安がやってきて、朝はそれから解放されてと、朝と晩でまるで違う気分に支配されることにほとほと疲れてしまう。それでまた、私はおかしいのではないかと思いはじめてしまう。しかし「鏡ばかり見ているとノイローゼになる」。夜になると私はのぞかなくていい鏡をのぞきこんでしまうのだ。だけど、のぞかなくていい鏡なら、なぜそこにあるのか、とまた考えてしまう。考えると胸がつぶれる。だからなにも考えないようにする。
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