一週間くらい前か、新国立美術館で開催されている「国展」を見に、父に着いて一緒に行く。父の知り合いというか、教え子に当たる人が入選されたので、見に行った。
その人は、挨拶ついでに他の作品の説明もしてくれるとても優しそうな人当たりの良い人で、よく見たら7年前に一緒にアメリカに行った人だった。向こうは私のことをちゃんと覚えてくれていたが、私はまだ子供だったので、おぼろげな記憶しかない。シカゴのジョン・ハンコック・センターを観光客然とカメラをぶら下げてぞろぞろと行き、そこから見える100万ドル以上の夜景に感動して顔を見合わせた、ことしか覚えていない。我ながら勿体ない旅の仕方だ。
今日は、また別な場所の展覧会にお邪魔した。子供のころ、父の先生に当たる方の展覧会をここでやったことを覚えているが、ここが映画の舞台になったこと以外、まったく記憶から抜け落ちていた。久しぶりに来てみて、子供のころに見たケンタッキーがまだあることに軽い感動を覚えた。駅からの上り坂は思っていたよりずっと急で長かったが、その先の階段はとても短くてすぐと終わってしまって、その終わった先の緑のトンネルの先に美しい白い建物が建っていた。ああ、こんな風だったっけ、と懐かしく、だけど不思議に思う。映画の中ではもっと大きな建物のように映っていたが、実際目の当たりにしてみると、それほど大きくもない。だけど中に入ってみると、意外に広い。不思議な構造で、建物の横幅は狭いのだが高さがある。部屋の中や部屋のドアは、迫ってくるような狭さなのに、一歩踏み入れてみると、意外に天井が高くて変な感じがする。部屋全体に長体をかけたような、まるで自分まで横幅80%縮小されたような、そんな不思議な感じがあった。
展覧会の会場へ向かう電車のなかで、前の恋人によく似てる人を見つけて、一瞬心臓がきゅっとちぢんだ。ここは彼の住んでいる沿線で、だから昼間の時間帯に彼がもしかして電車に乗ることも当然考えられることで、そうしてこの場合の私は彼の領域に突然割って入った闖入者なのだと思うと、何だか切なかった。電車のなかの彼によく似た人はスマートフォンをいじっていて、誰に何のメールをしているの、と思った自分が怖かった。これからどこに行くの。誰に会うの。何の用事で、もしかして楽しいこと。そこまで想像して悲しみを覚えた自分を、怖いと思った。いまさら何を執着することがあるんだろう。いまさら何をやりなおせることがあるんだろう。私はできるだけのことはやった。出来る限りのことをやった。自分がするべき、そうあるべき行動をとった。不完全で不充分だったかも知れないが、ともかくも私は自分で納得できるまでの行動をとり、そうして疲れた。ここに私の幸せはないと思った。無理をすることは私の幸せではないと思った。誰かや何かの意志と意思におもねることは私の幸せではない、もう私は誰かや何かの意志と意思の思うままに従わないと決めた。私は私の幸せを求める。簡単に言えば、やりたいことをやる。誰にも邪魔されないように、やりたいことをやりたいだけ、自由にやる。それを誰かに止められたり、誰かの顔色をうかがったり、その結果として行動を制限したりすることは、しない。それは私の幸せではない。
そんな当たり前のことに、いまさら気が付いて、そうして今からそれを求める。心の中でぶつぶつとそのことを唱えて、納得すると、さっき見たのは、彼によく似た別人だったかも知れないと、都合のいい考えが浮かんできた。実際のところ、どうか分からないが、もう今さらどうすることもできないことについて、あれこれ思い悩んでいることが辛いので、辛いことからは逃げる。それで良い。
新国立美術館の磨りガラスから見える、屋外展示作品
その人は、挨拶ついでに他の作品の説明もしてくれるとても優しそうな人当たりの良い人で、よく見たら7年前に一緒にアメリカに行った人だった。向こうは私のことをちゃんと覚えてくれていたが、私はまだ子供だったので、おぼろげな記憶しかない。シカゴのジョン・ハンコック・センターを観光客然とカメラをぶら下げてぞろぞろと行き、そこから見える100万ドル以上の夜景に感動して顔を見合わせた、ことしか覚えていない。我ながら勿体ない旅の仕方だ。
今日は、また別な場所の展覧会にお邪魔した。子供のころ、父の先生に当たる方の展覧会をここでやったことを覚えているが、ここが映画の舞台になったこと以外、まったく記憶から抜け落ちていた。久しぶりに来てみて、子供のころに見たケンタッキーがまだあることに軽い感動を覚えた。駅からの上り坂は思っていたよりずっと急で長かったが、その先の階段はとても短くてすぐと終わってしまって、その終わった先の緑のトンネルの先に美しい白い建物が建っていた。ああ、こんな風だったっけ、と懐かしく、だけど不思議に思う。映画の中ではもっと大きな建物のように映っていたが、実際目の当たりにしてみると、それほど大きくもない。だけど中に入ってみると、意外に広い。不思議な構造で、建物の横幅は狭いのだが高さがある。部屋の中や部屋のドアは、迫ってくるような狭さなのに、一歩踏み入れてみると、意外に天井が高くて変な感じがする。部屋全体に長体をかけたような、まるで自分まで横幅80%縮小されたような、そんな不思議な感じがあった。
展覧会の会場へ向かう電車のなかで、前の恋人によく似てる人を見つけて、一瞬心臓がきゅっとちぢんだ。ここは彼の住んでいる沿線で、だから昼間の時間帯に彼がもしかして電車に乗ることも当然考えられることで、そうしてこの場合の私は彼の領域に突然割って入った闖入者なのだと思うと、何だか切なかった。電車のなかの彼によく似た人はスマートフォンをいじっていて、誰に何のメールをしているの、と思った自分が怖かった。これからどこに行くの。誰に会うの。何の用事で、もしかして楽しいこと。そこまで想像して悲しみを覚えた自分を、怖いと思った。いまさら何を執着することがあるんだろう。いまさら何をやりなおせることがあるんだろう。私はできるだけのことはやった。出来る限りのことをやった。自分がするべき、そうあるべき行動をとった。不完全で不充分だったかも知れないが、ともかくも私は自分で納得できるまでの行動をとり、そうして疲れた。ここに私の幸せはないと思った。無理をすることは私の幸せではないと思った。誰かや何かの意志と意思におもねることは私の幸せではない、もう私は誰かや何かの意志と意思の思うままに従わないと決めた。私は私の幸せを求める。簡単に言えば、やりたいことをやる。誰にも邪魔されないように、やりたいことをやりたいだけ、自由にやる。それを誰かに止められたり、誰かの顔色をうかがったり、その結果として行動を制限したりすることは、しない。それは私の幸せではない。
そんな当たり前のことに、いまさら気が付いて、そうして今からそれを求める。心の中でぶつぶつとそのことを唱えて、納得すると、さっき見たのは、彼によく似た別人だったかも知れないと、都合のいい考えが浮かんできた。実際のところ、どうか分からないが、もう今さらどうすることもできないことについて、あれこれ思い悩んでいることが辛いので、辛いことからは逃げる。それで良い。
新国立美術館の磨りガラスから見える、屋外展示作品

0 件のコメント:
コメントを投稿