2012年9月9日日曜日

「生きるための家」展

 父と東京都美術館に「生きるための家」展を見に行く。その後、時間があったので表参道へ移動し岡本太郎記念館も行く。

 「生きるための家」はあまり面白うなかった。大賞に選ばれた作品がでかでかと実物大のスケールで展示されていたが、何というか、可愛らしい家で、私の好みでない。私はとことんまで実用的な造りが好きだ。それが美しいと思う。頭でっかちだからか意味を求めてしまう。斜めの屋根、塞がれていない壁、宙ぶらりんの棚、小さな植木鉢をぽちぽちと並べること、それに何の「意味」があるのかと、いろいろ考え過ぎてよく分からなく感じた。最近「意味」原理主義にとりつかれている私には、「意味」がないことはするべきではないという確信が覆い被さっていて、だから理解できない意図に当たると、それは何故、どうして、どういうこと、と頭のなかが疑問符で埋め尽くされてしまい苦しくなってしまう。答えの出ない問いに対して、何の意図もなく「なんとなく」から始めたのならやらない方がましだとまで思ってしまう。ある意味で、「意味」原理主義の重篤な症状に陥っている。

 そういうわけでそれ以外の、もっと可愛らしい作品もやっぱり意味がよく分からなくて理解するのを途中でやめてしまった。あとはただ見た目の出来や何かで「かわいい」だの「面白い」だの「変わってる」だのと白痴同然の三語を使い回してどうでもいい感想を述べることに終始した。くたびれて建物の外に出ると、「マウリッツハイス美術館展」を見に来た長蛇の列が炎天下の上野公園で何重かのとぐろを巻いていて、その人混みに当てられて気分がたいへんに滅入る。こんなに待たされて、こんなに人が多くて、それで絵なんかよく見られるよな、という気分になる。私は、途中で、並んで待たされることのみじめさに負けてしまう気がする。こんなにおあずけを喰ってから差し出されるご褒美ならいらないと思ってしまう気がする。そういう自分の変な考えすぎと変な劣等感でいたたまれなくなって、きっと途中で帰ってしまう気がする。私にはとても真似できない。



 上野駅そばのお店で昼飯をかっ喰らう。あまり選ばずに入ったせいで店内が煙く、たばこくさくもあり、冷房もつよく効いていて、疲れてくる。しかし重症ファザーコンプレックスを患う私には父の前で不機嫌な顔を見せることができず、にこにこと笑って大急ぎで食事をとる。私は食べるのが遅い。だけど父は早い。そうして食事が遅いことを愚図だといって嫌う。だから急ぐ。急いで、満腹で、苦しい。だけど「私はあなたのために急ぎました」と恩着せがましく振る舞うのはとってもみっともないことだから嫌で、涼しい顔をして膨らんだ腹をさすって軽い足取りをよそおって店内を出る。上野から表参道へ移動する銀座線の車内で我を失ってつかの間の眠りをとる。目が覚めたとき、もう頭がかすかに痛かった。

 そのあとはお決まりのパターンで、頭痛、吐き気、気持ちが悪いの三拍子が揃い夜はへべれけに吐いた。へべれけとは酔っ払いに使う言葉だが、もうものすごく極まって吐いた。収縮する胃の形が分かったのはあれが初めてだ、と姉に言ってから、もしかしてあの痙攣していたのは横隔膜だったかも知れないと思う。どちらか分からない。分かったのは、確かにお腹の真ん中が痙攣して反り返っていたことだ。この内容物を吐き出さんと天に向かって突き上げてきた。いかんともしがたい衝動に負けて私は都合3回ほど吐いた。胃酸で歯がざらつくのが分かったが、歯ブラシでも口の中に突っ込もうものならどうしようもなくなってしまうのが分かりきっていたので、そのまま気絶して眠る。どうして私は普通に出掛けられないのだろう。どうしてたかが土日、昼間に外に出たくらいで、すぐと負けてしまうのだろう。とくに父親のような、嫌われたくないあまり強い緊張が解けず、結果としてそれが頭痛と吐き気にまで展開してしまうなんて、私はいったい父と何年親子をやっているのかと我ながら情けなくて仕方がない。どうしてくれよう、この精神的な弱さ。もうこのままじゃ外出もままならなくなってしまう。

「Arts&Life:生きるための家」展

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